17 その道に紡いで

 その刹那。不意に腕を打たれ、決意もろとも文字通り吹き飛ばされて、尻を打つ。遅れて、部屋の隅に短剣が跳ねて落下する音が響いた。


 驚く間もなく、呼吸が止まる。ヴァンの手が、エレナの喉を握り潰そうとしていた。


 目にも止まらぬ速さで馬乗りになった彼は、淀んだ藍色の瞳で、無感動にエレナを見つめる。エレナはそれを、苦痛の涙に覆われた視界で見上げた。意識が混濁する。視界がぼやけて、感覚を失う。


 死を覚悟した瞬間、不意にヴァンの手が、筋を切ったかのように脱力した。何事か。困惑したのは彼の方だった。己の手のひらをじっと見下ろした後、再度絞首を試みるも、一瞬の隙を逃さず横に転がって逃げたエレナの残像を掴んだだけだった。


 喉を抑え、呼吸を整える。きっと、契約とやらはまだ有効なのだ。


 そもそも、油断をしていたエレナに非がある。ああも簡単に、眠る彼を突き刺すことができるのなら、それこそアリアレッテが手を下せば良いだけのこと。それをしなかったのは、ヴァンが命の危険を感じて覚醒する可能性があったからなのだろう。


 暗い視線が、エレナに注がれる。今、ヴァンは何を思っているのだろう。その目からは、一切の感情が読み取れない。


 エレナは視線を巡らせた。短剣はどこだろうか。あった、祭壇の脇だ。しかしエレナの視線に気づいたヴァンは、武器を取らせまいと短剣に手を伸ばす。あれを取られてしまったら、埒が明かない。


「こっち、見なさい!」


 咄嗟に、祭壇から果実を鷲掴んで投げる。それは硬い音を立てて側頭に当たった。ヴァンは短剣に向いていた足先を、こちらに向け直した。その短絡的な反応は、およそ人の動作ではない。彼の中には猛獣が住んでいる。


 獣のような目に射竦いすくめられて、エレナは肩を震わせた。これほどまでに冷たいヴァンの視線を浴びたのは、初めてだった。いくら彼がエレナを殺せないとしても、それはエレナが彼の命を奪える保証にはならない。


 エレナは後退りながら燭台を掴み、眼前に構える。野犬か何かであれば、火に怯えたかもしれない。しかし獣のごとき所作とはいえ、彼は人間の身体を持っていた。燭台の微かなともしびくらいでは、何の牽制にもならなかった。


 踵が壁面に当たる。身の危険が迫り、体中の血が凍るような感覚に苛まれる。ここにきて、エレナは理解していた。死なないことと、傷を受けないことは同義ではない。


 にじり寄るヴァンに、抵抗する術はない。壁を滑るように横に進むも、そんなもの時間稼ぎにもならない。頭部の一撃への報復か、ヴァンが拳を振り上げる。反射的に瞼を閉じる。が、覚悟をした打撃は訪れない。細く目を開けばヴァンは、空中に浮いた拳を震わせながら、こちらを見つめていた。その瞳が、燭台の光を反射して、澄んだ煌めきを放った。


「……剣を」


 絞り出すような声に、目を見張る。ヴァンの瞳には、人の情が戻ったようだった。


「剣を、早く」


 言わんとすることを理解し、エレナは転がるようにその場を離脱して、祭壇の横に膝を突く。短剣を胸に抱え、肩越しに振り返る。ヴァンは拳を宙に固定させたまま、眉を下げてエレナに視線を向けた。彼の中にいる何かと身体の主導権を奪い合い、その身の内側で戦っているのだろう。震える拳がそれを物語っていた。


「ヴァン。戻ってきて」


 縋るような言葉が滑り出る。ヴァンの善良な精神が戻って来るのなら、命を絶つ必要はないのではないか。一縷いちるの希望に縋ったエレナに、非情にもヴァンは首を振った。


「無理だ。ずっとは、出ていられない。早く終わらせて。君の手で」

「でも」

「君を傷つけたくない。お願いだ」


 エレナは唇を噛み、立ち上がる。剣が動くたび、鈴の音が鳴る。急かすような響きに聞こえた。ヴァンはやっと拳を下ろし、幾らか安定した様子で、しかし相変らず不自由そうな動作でこちらに向き直る。


「ごめん。君にこんなことを」


 エレナは首を振る。謝るのはエレナの方だ。彼はこれほどまでに、エレナを案じてくれているのに。それなのに。


「あなたは最高の星の騎士セレスダだった。全てを捨てて教えを守り、私を守ってくれたのに」

「僕がそうしたかっただけだ。……さあ、剣を。本当は自分でやりたいけれど、どうも自由が利かなくて」


 それが彼の望みならばと、エレナは剣先をヴァンの胸に向ける。一番苦痛が少ないのは斬首だと聞いたが、アリアレッテ曰く、エレナの膂力りょりょくでは断ち切る事ができないだろうとのことだった。だから切先は、鼓動に狙いを付ける。


「ごめんなさい」


 全身の力を込めて、剣を突き立てる。骨を掠め、深く肉に食い込む感触に、手が震える。恐ろしい感覚に怖気付き、深く突き立てることができない。半端な苦痛を受けたヴァンが呻く。彼の様子を見る限り、刃は急所を外しているようだ。


 苦しみを少しでも早く終わらせてあげなくては。再度剣を握ろうとするのだが、握力が出ない。手間取る隙を突き、不意にヴァンの平手打ちがエレナの頬を襲った。


 足がもつれて壁面に背中を叩きつけられる。顔を上げれば、は再度、主導権の葛藤の最中にあるようだった。やがてヴァンの柔和な瞳が戻れば、彼はまるで泣き出しそうな顔をした。それから自らの手で剣を掴み、押し込んで横に引く。傷口が広がり、鮮血が床板に広がる。


「ヴァン」

「来ちゃだめだ! そこにいて」


 近づけばまた、エレナが暴力に晒されるかもしれない。そう思ったのだろう。


「嫌だ。やっぱり、やめよう。治療をすれば、まだ助かるわ。だからもうやめて。お願い」


 ヴァンの命を奪いに来たのはエレナだ。にもかかわらず、何の権利があってこのような言葉が口を突くのか。ヴァンは、静かな目で首を振る。腰を下ろし、蹲るようにして苦痛に呻く。


「君を泣かせるなんて、星の騎士セレスダ失格だね」

「そんなことない」

「……『星の姫セレイリの剣となり盾となれ』」


 囁くような声音に、耳を傾ける。


「『己の命尽きるまで、主の全てを守り抜け。されど、彼女を愛しすぎてはいけない』。星の騎士セレスダの教えだよ」


 死の淵で語る彼の言葉に、エレナは頷く。彼は立派に成し遂げた。命尽きる瞬間まで、エレナを傷つけまいとしているのだから。しかし彼は、そうは思わなかったようだ。


「僕は教えを守れなかった」

「守ってくれたわ」

 しかしヴァンは自嘲気味に笑うのだ。

「いいや、だめだった。……エレナ」


 焦点が揺れ始めた瞳が、こちらを射抜く。エレナは壁際に這いつくばったまま、彼を見つめる。


「君が好きだ。誰よりも特別に愛してしまった。だから僕は、失格なんだ」


 言って目を伏せる姿に、返す言葉が見つからない。エレナには愛がどんなものなのか、分からない。


 だが、ヴァンのためなら全てを投げ出すことも厭わなかったのだ。彼の言葉を聞いた時、ずっと前から同じ気持ちだったのではないかと思い当たった。同時に王宮の皆は、とうにそれに気づいていたのだろうとも思った。気づいていて……それでも目を瞑っていた。エレナはいつか、女神に捧げられる運命だったから。


「ヴァン。私」


 伸ばした手が、崩れ落ちるヴァンの肩を支えた。鮮血の臭いにはもう慣れて、彼が近づいても鼻を刺激はしない。鼓動を止めても未だ温かな身体が力を失って倒れ込むのを、抱き留めた。


 今更気づいてしまってももう遅いのだ。もっと早く。そう、それこそあの塔で、波の王オウレスの元へ行くとたった一言口にすれば良かったのだろうか。もしかしたら運命はそう単純ではなく、エレナが別の選択をしていても、ヴァンは悪しき存在へと変貌をしてしまったのかもしれない。それでも、行いを悔いずにはいられない。


 星の姫セレイリの責務、岩の王サレアスを繋ぐこと、慈しんでくれたすべての人。それらをなげうつ勇気がなかったがために、こうなってしまった。結局今では全てを捨てたのに。


 ヴァンを傷つけ、たくさんの人を裏切り、その結末がこれなのか。全てはエレナの責任ではないか。


「あの頃に戻れたら」


 幼い無邪気な日々。この道を避ける分岐点は、いくつもあったはず。しかし時間は戻らない。あるかもしれなかった運命の一つが、指の間から零れ落ちていく。


星の女神セレイア、どうか……」


 もう星の姫セレイリではないエレナの声など、女神には届かないだろう。そう思えども、祈らずにはいられなかった。


「どうか、もう一度、その糸を紡いでください」


 何を口にしているのか、自分でも理解ができない。糸とは何か。あるかもしれなかった運命とは? どこでそんな話を聞いたのだったか。記憶を探っても、何も掴めない。


 ヴァンの温かな背中に腕を回して抱きしめる。その瞬間、彼の胸から熱の放射を感じた。いや、熱を発したのは、エレナの胸だった。怪訝に思い、懐を探る。温かいそれを引き出せば、見慣れぬ皮の巾着だった。紐をほどいて中を覗き込む。微かに光沢を持った黒い粉と、同色の石の破片のようなものが入っている。


「なにこれ……」


 不可解な、身に覚えのない物体。……いや、違う。記憶が収斂しゅうれんする。イアンの声が脳裏に


『ヴァンが最後に欲しがったものです。何等かの突破口になるかもしれない』


 星の宮で彼と別れを告げた時。エレナの手を握った、固い手のひら。それが離れれば、エレナの手中には幼馴染の温もりの名残と、この皮巾着が残されていた。エレナはそれを大事に首から掛けて、肌身離さず持っていたのだ。


 不意に、かたん、と微かな物音がして、室内に光が差す。振り向けば、アリアレッテがそこに立っていた。


「エレナ、それは」


 呟いて、彼女は腹落ちしたように頷いた。


「剣の神の破片ですね。それではもしかしたら。……いえ、剣は不完全な状態なのであまり期待は」

「もしかしたら? ヴァンは助かるの?」

「焼き尽くされたあなたを救ったほどの力です。ですが保証はありません」


 それきり彼女は口を閉ざす。ヴァンの身体はもちろん動かない。それでも、抱き締めた腕を通じて、微かな脈拍が戻ったことが感じられた。鮮血に濡れるのも厭わず頬を寄せ、小さな鼓動に耳を傾ける。規則正しいその音に意識を預け、エレナは妙に達観した心持ちになる。


 全ては神の導きで始まったのだ。あの選抜の日、エレナがヴァンを選んだことすらも、きっと神の意志だった。そして今、剣の神が再び眠りに落ち、長きに渡る思惑は果たされたのである。二人の物語はこの瞬間、大いなる存在の手を離れたのだ。


 ヴァンは、剣の神の力が弱まったところ、力を酷使して均衡を崩し、暗示に落ちたのだという。その神力の源は、大神が人に与えし漆黒の剣。今は砕けてしまったが、破片は確かにこの手中にある。ならば行うべきことは明白だ。


 北へ。


 今度はエレナが、彼を救う番である。



第六幕 終

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