16 変わらないもの

 

 乱雑に打ち捨てられた記憶と細かく裁断された感覚が、断片的な意識の浮き沈みに合わせて、辛うじて指先に触れる。そんな世界だった。は、いったい何をしているのだろう。


 欲望のままに振舞い、何一つ足りぬものなどない。求めれば何もかも差し出された。それを俺は貪欲にむさぼる。そして気づけば恐怖の断末魔を浴び、血の海の中にいた。その赤の、何とかぐわしいこと。もっと欲しい。


 捧げられた無垢なる巫女は、一晩で赤に沈み、跡形もなく消えた。命乞いのか細い声も畏怖の視線も、遥か遠方で繰り広げられる寸劇の一部のように、他人事で取るに足らないものだった。俺はその惨殺を楽しんだ。そして俺の周りからは何もなくなった。


 北へ。それは本能のようだった。あそこへ行けば、もっとたくさんの血をこの身に浴びることができる。砕けた剣の代わりを作り上げ、力を取り戻すこともできる。それは何と甘美な世界。


 北へ、北へ。それだけが、意識の欠落した身体を突き動かす。人の身の限界を超え、幾度も死の苦痛を味わった。体中の穴から血を流し、意識の浮上と共に痛みに悶え、それからまた、水底へ。


 時折は、こうして目覚め、禍々しい赤を見下ろす。そして己の所業に絶望し、遥かな深淵へと潜り込む。もう二度と目覚めなど不要。いっそ全てなくなってしまえば楽になる。僕が消えてなくなるように、深く、深く深海に沈む……。


 ちりん……


 軽やかな鈴の音が、妙に明瞭に響く。隠れたい。その意志に反するように、僕は急速に感覚を取り戻す。鈴の音は、巫女の音だ。哀れな娘。まだ生きていたのか。彼女は翌朝には贄となり、冥界の門をくぐるだろう。そんなもの、見るに堪えない。感覚よ、どうか闇の中へ沈め。


 だがその願いは叶わない。なぜだろう。なぜ今日だけは、僕は僕なのか。



 峻厳な山脈はすでに、半ばから白く覆われていた。枯れ色に染まった山のある一点から上が、定規で線を引いたかのように白銀に包まれて、まるで別世界のよう。寒風が吹き降りるそこは、ヴァンが待つ里である。


 里の建物の大半は文字通り灰となり、風に攫われて消えて行ったのだという。彼に悪意を持ち接した者らも、同じように。


 アリアレッテは意外にも、残虐な話を直接的に語ることはなかったが、この里から逃げ出せなかった多くの人間が命を散らしたことは、言葉の端々から察せられる。


 ヴァンは、そんなことはしない。自分の中の猛獣が恐ろしく、騎士団の鍛錬すらさぼるような子供だったのだ。だから今、眠りの暗示にかかっているというその人物は、ヴァンではない。もし彼が自我を取り戻し、罪の意識に苛まれるのであれば、共に贖罪を行おう。


 里の中央に、ひと際大きな建造物がある。外壁は羽目板。風雨に晒されて所々ささくれ立っているが、堅牢な建築がうかがえる。この建物は、灰にはならなかったようだ。アリアレッテはそれを素通りし、里の北側、山脈の巨壁がそそり立つ側へと足を進める。


 やがて、小さなやしろが現れる。三角の屋根が物珍しい。雪が降った時、重みで建物が押し潰されないように設計されているらしい。ヴァンはこの、こじんまりとした剣の神の社の中で、眠っているのだという。


「本当に、一人で良いのですか」

「ええ。私には契約があるでしょうけど、あなたを守るものは何もないのだから」

「……では、私は外に居りますので、何かあれば声を上げてください。命までは取られることはないでしょうが」


 無論、剣の神とヴァンの契約により、エレナの命は保証されている。しかしその契約、本当に今も有効なのだろうか。今更ながら、緊張に身体が強張る。


 アリアレッテは、エレナに鈴の付いた短剣を手渡した。長身の女の腰には、鈍色にびいろの細剣が吊るされていたが、室内で振り回すにはいささか不便だろうということで、短剣をくれたらしい。どちらにしてもエレナには武術の覚えはない。眠っているの胸を一刺し。それで全てが終わるだろう。


 アリアレッテが鉄の錠を開く。内部から、甘い匂いがした。星の宮で焚かれるこうよりも、ずっと甘美で深い、そんな匂い。短剣の鈴の音と相まって、催眠効果を増すらしい。アリアレッテは室内に充満した煙が逃げないように、素早く扉を閉めた。


 室内は想定よりもさらに狭く、採光の窓もない。最奥に祭壇のようなものがあるが、蝋燭はとうの昔に燃え尽きていて薄暗い。供え物の赤い果実の隣に置かれた燐寸マッチを手に取り、予備の蝋燭を燭台に挿す。四つの明かりが灯ればやっと、彼の姿が薄闇に浮かんだ。


 祭壇の手前で、白い布が張られた台の上に、彼は仰向けに横たわっていた。腹の上で手を組み、瞼はぴくりとも動かない。しかし胸は呼吸により小さく上下している。


 眼前で穏やかに眠っているヴァンは、いつもと何ら変わりなく見えた。薄闇の中では黒に近く見える柔らかな髪。それは光の下ではかえって淡く輝くはず。微動だにしない瞼。意外にも睫毛が長いのを、エレナは知っている。小さく上下する腹部で固く握られた手。幾度も肉刺まめの潰れた固い手のひらだ。


 目の前にいるのはヴァンではないと思おうとしたけれど、それは無理だと知った。いつも寄り添ってくれていた頃のまま、何も変わらぬヴァンがそこにいる。


 塔の上で、「今のあなたは昔とは違って見える」と言ってしまった。それは彼を深く傷つけただろう。今思えばあの言葉は間違っていた。ヴァンは何も変わらない。ただ、彼を利用せんとする者が、彼を抑圧して封じ込めているだけ。


 そのことに気づいてしまえば、鼓動を続ける胸を刺し貫くことなど出来なかった。だが、やらねば彼は、この地を灰燼と化す邪神になるだろう。エレナをここへ送り出した人々のため。いや、何よりヴァン自身のために。何もわからぬ眠りの中で、静かに絶命する方がよっぽど優しい世界なのだ。


 胸に抱えていた短剣が身じろぎに合わせて揺れて、軽やかな鈴の音が響いた。エレナの頬を伝ったものが、ヴァンの肩のあたりに零れ落ちる。


「ごめんなさい。あなたは私を守ってくれたのに。私にはあなたを助けられない」


 鞘から剣を引き抜く。鈴の音に耳を傾けつつ片手で柄を握り、柄頭にもう片方の手を押し当てて狙うは急所。脈打つ鼓動のある辺り。鈴が小刻みに揺れる。エレナの手が震えていた。


「ごめんなさい」


 もう一度呟き、剣を押し下げる――。

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