15 永遠の星の姫


 それが決まってから、秋が深まるのを待つ必要もなかった。庭園の紅葉樹は相変らず葉を残す。朝晩は冷えるが日中は、激しく動けば汗ばむ陽気。にもかかわらず、エレナの装いは厚手である。


 身に纏うのは神事に使う白の貫頭衣。先日火に焼かれて灰になってしまったが、もちろん予備がある。その上に冬用の外套を羽織り、棺のごとく純白の箱に横になる。これから向かうのは、星の女神セレイアに最も近いと言われる、国土西方の山だ。途中、数回の宿泊を挟みつつ、最後の日に一気に山を登る。さらにその後、人知れず向かうのは遥か北方。薄着で行こうものなら、本当に女神の元に旅立ってしまうだろう。


 幼い頃、王女となる以前には、聖都に出る機会はほとんどなかった。神聖なる星の姫セレイリ。それは深窓の令嬢よりもずっと、厳重に扱われていた。


 エレナは幼少の頃より、星の宮から庭園を眺めるのが大好きだった。その理由は、唯一自由になれる場所が、この王宮庭園だけだったからでもある。


 中央で枝葉を広げる神樹、お茶会を開いた花々の小道、地下水道横の秘密基地。たくさんの思い出が詰まったこの庭に、もう二度と足を踏み入れることはない。


 永遠の星の姫セレイリとしてこの王宮から……この国から姿を消す。それを考えれば鉛を飲み込んだように胸が重くなる一方、全てのしがらみを脱ぎ捨てることは、羽根のごとく身軽にも感じられる。全てが終わったら、どこへ向かおうか。


 メリッサには最後まで、本当のことは告げなかった。言えばおそらく彼女は涙して、エレナを必死に引き留めるだろう。きっと彼女は母として、娘が危険な場所に向かうことを許さない。エレナを引き留めることは、この国を危険に晒すのだと言っても、聞きはしないだろう。


 庭園の景色を目に焼き付けて箱に入る時、女神の元へと赴くエレナを思い、悲嘆にくれまいと唇を噛む母の姿を見て、胸が抉れるようだった。それでも真相を告げることはしなかった。


 その日はワーレン司教とも別れを告げた。幼いエレナの教育係を務め、数年前に司教となり東方へ赴任した男。時折手紙のやり取りがあったものの、顔を合わせたのは久方ぶりである。


「ご立派になられましたね、星の姫セレイリ


 別れの言葉はこれだけだった。彼は、悲しみの片鱗も見せない。ワーレン司教の知性を感じさせる瞳が、こちらを射抜くように思えた。そういえば彼も、エアリアの手記を受け取っていたはず。彼女が司教に遺した言葉は何だったのだろうか。訊くことはしなかったが、もしかするとエレナの使命に関わることが記されていたのだろうか。それであれば議場での彼の振舞いにも説明が付く。


 共謀者の一人であるイアンは、言葉少なに別れを告げて、エレナの手を握った。肉刺まめが潰れて固くなった武人の手。あの選抜の日に出会ってから、縁が繋がり今日まで側にいてくれた。エレナやヴァンにとって幼馴染でもある彼には、この国で平穏に幸せになってほしい。


 最後に視線を絡めたワルターは、一言たりとも口を開かなかった。ただ、いつも通りの静かな目でこちらを見つめていた。白き箱が閉まる刹那。僅かな光の筋と共に、彼が強く唇を引き結んだのが見えた。


 エレナを聖地へと運ぶのは、黒岩騎士だった。本来、このような役目は神殿の聖職者が担うのが筋だろうが、彼らの中には、横たわった人間を担いで山中を進む脚力がある者などいないのだ。


 随行者の中には、ハーヴェルもいる。イアンも志願をしてくれたそうだが、ワルターに引き留められたらしい。イアンのように熱量の高い男は、エレナを山中に置き去りにすることなどできないだろう。一歩間違えれば「考えなおしてください」とエレナを担いで戻って来るかもしれない。


 馬車に揺られて山麓へ行き、山道を人の手で登る。表向きは、神によって不死となった星の姫セレイリの護送であるのだが、日中のみならいざ知らず、さすがに全ての行程を箱の中で過ごすのは無理がある。最後に山を登るまでは、蓋を封じる杭は打たれない。


 向かうは聖都近郊の山。平地の多いサシャのこと、標高はさほど高くない。三日もあれば目的の山麓に着いて、そこから半日かけて山頂に到達する予定だ。麓の宿を出る時に箱には杭が深々と打たれ、以降は飲まず食わずで用も足せず。おまけに、いくら気を遣って丁寧に運んでもらっても、揺れは防げず腰が痛む。やっと目的地に安置され、振動が止んだ時には、ほっと息を吐いた。


「それでは星の姫セレイリ。女神のご加護がありますように」

「エレナ様、


 ハーヴェルの低い声が、棺のごとき空間に反響する。いつだって父か伯父のように接してくれたその優しい瞳を、もう二度と見ることはない。


 靴底が砂を擦る音がして、彼らが踵を返したと察する。騎士が去れば、ほとんど手つかずの自然の中、揺れる木立の音と、鳥のさえずりばかりが耳に届いた。日中によく遊ぶ種類の小鳥の声だ。まだ陽が沈まぬ時分だろう。


 ほどなくして、箱に触れるものがあった。足音なく忍び寄り、蓋に打ち付けられた杭を強く引いているようだったので、もしや腹を空かせた猛獣かと息を吞む。しかしそれは、杞憂だった。


星の姫セレイリ、大丈夫ですか」


 低めの女声。アリアレッテだ。これも事前の計画通りで、この場所で彼女に解放してもらい、共に北方を目指す予定である。


 その細腕のどこにそのような怪力が備わっているのだろう。アリアレッテは汗一つかかず、表情すら変えずに、深く穿たれていた杭を引き抜いて、エレナを解放した。


 斜めに傾いた日差しが眼球に突き刺さる。眩しさに目を細めたエレナの背中を支えて起き上がるのを助けたアリアレッテは、僅かなりとも表情を変えない。


「お疲れ様でした、星の姫セレイリ

「もう星の姫セレイリじゃないわ」


 永遠の星の姫セレイリ、という体で出発はしたものの、これから行うことは神殺し。女神の御子などとは名乗れない。アリアレッテは小首を傾げた。


「では、殿下と?」

「それも違うでしょ。エレナと呼んでくれていいわ」


 この状況で何を呑気にという気分だったが、アリアレッテのある種純朴な行動に、いくらか緊張が解れたので不思議である。エレナよりも年長と見えるアリアレッテだが、心の機微においては子供の方が聡いかも知れない。


「ではエレナ。早速向いましょうか。我が里へ」

「あ、ちょっと待って!」


 足早に北側から山を下ろうとするアリアレッテの腕を掴む。彼女は表情を変えない。


「どうされました」

「その、少しだけ、森に入っても?」

「わかりました。お供します」

「あ、いいのいいの。一人でいいから!」


 アリアレッテが柳眉を顰める。実のところ、尿意が限界だった。しかしそのようなこと、奔放なたちとはいえ王宮育ちのエレナには口にできない。やがて、動きから察したのだろうか、状況を悟ったアリアレッテは合点がいったというように大きく頷いた。


「ああ、排尿ですか」

「……うん。行ってきていい?」

「どうぞ。何かあれば駆け付けますので」

「ええ……ありがとう」


 北方までの旅程、前途多難な気配がした。実際、それは杞憂ではなかったのだが、視点を変えればむしろ可愛らしいものですらある。アリアレッテのやや間の抜けた振舞いに慣れた頃にはすでに、深い迷いの森に囲まれた、北の秘境へとたどり着いていた。

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