13 離別の時

 あの処刑の日。本当は何があったのか、ワルターは包み隠さず語ってくれた。


 ワルターとヴァンはエルダス伯爵と星の騎士セレスダであった頃から顔見知りだったが、共謀をするほど親交を深めていたとは想定外である。ワルターに言わせれば、別に親密だった事実はなく、火傷で臥せっている時に突然ヴァンが病室にやって来て、突拍子もない計画を提示してきたものだから、とうとう頭がおかしくなったのか、とまで思ったらしい。


 エレナとしても、ヴァンの中に住まう剣の神とやらの存在は受け入れがたく、あのワルターが真実だと言えども、どうにも納得できない部分があった。


 ワルターがなぜ、剣の神などという壮大な話を信じたかと言えば、ヴァンが窓辺を上った羽虫を操って見せたからだという。なぜ羽虫、と思わなくもないが彼曰く、知能の高い生き物に干渉するのは代償が大きいのだという。


 言われてみれば、内なる存在について思い当たる節は多々あった。


 ヴァンが使臣として岩の宮を訪れた日、アルフェンホテルへの誘いの文を運んできたのは鼠だった。それにもっと前から彼は、時折人外じみた異能を見せていた。


 王の狩猟場で熊に襲われた際、子供用の剣で危なげなく返り討ちにして見せた光景は、脳裏に焼き付いている。ヴァンがその力を嫌悪していることに気づいていたので、直接告げたことはないのだが、エレナははっきりと、彼がただの温厚な騎士ではないのだと知っていたのだ。


 そこまで考えて思い至る。知能の高い生き物に干渉する代償が重いというのなら、灼熱に焼かれたエレナの身体を蘇らせるために、いかほどの対価を支払ったのだろうか。エレナの問いかけに、ワルターは何一つ臆せず、淡々と告げる。


「アリアレッテが告げたことは真実だろう。彼は、あの日の代償として、こうなることを知っていたようだ。知りつつも、あなたの髪の一本さえも焼かずに、民の目に神の奇跡を焼き付けることを願った」


 エレナは滑らかなひじ掛けを握り締め、唇を噛む。身体に力を込めていなければ、今にも崩れ落ちてしまいそうだった。


「あの青年の思考は掴みにくいが、実のところ筋の通った頑固な男だ。星の騎士セレスダの教えを、その任を失ってもなお、忠実にこなそうとした。だがそれはきっと、責任感や義務感からではない」


 座したまま膝を向き合わせた格好で、ワルターはエレナの表情を窺ってから続ける。


「不器用ながら、心からあなたを案じていたのだろうね。僕が彼なら、もっと上手く立ち回るだろうとは思うが」

「……私、ヴァンに酷いことを言ったわ」


 全てを受け入れるように鷹揚な緑の瞳に映る己の姿を見ながら、エレナは懺悔する。


「彼が波の王オウレスとしてあの塔にやってきた時、私のことが憎いのだと思ったんです。それを馬鹿みたいに直接告げてしまったの。なんて残酷なの。私はいつもそう。思えばあなたにだって」

「自分を責める必要はない。少なくとも僕は何とも思ってない」


 ワルターは穏やかに言いエレナの髪を撫でるのだが、それはほんの一瞬のことだった。その手はすぐに彼自身の膝に戻されて、軽く握り締められた。しばしの逡巡の末、彼は問いかける。


星の騎士セレスダのところに行きたいか。全てをなげうってでも」


 突然の言葉に、求められた答えが分からない。その困惑すら見越したように、ワルターは続ける。


「訊き方を変えよう。彼を愛しているのか」


 そんなこと、ワルターの口から発せられるべき問いではない。それでも、真摯に向き合う眼差しに、無責任な返答は許されない。


「……分からない」


 唇から滑り出たのは曖昧な回答だったが、何も誤魔化しを意図してはいない。ただ、本当に分からなかったのだ。


 もちろんヴァンのことは大切で、今でも半身のように思っている。だが彼が姿を消す日まで、エレナはただの星の姫セレイリだった。誰か一人を特別に愛すことなど許されず、それをしないだけの分別を持ち合わせていた。


 だから今更そのような問いかけをされても、明確な答えなど持ち合わせてはいない。愛だの情だのと言う単純な言葉では、二人の間にあるものを表現できやしない。


 想定外の答えだったのだろう、ワルターが束の間言葉に詰まる。それを見て、ほとんど泣きたい気分になった。ワルターの心を理解するどころか、自分の気持ちすら整理ができないのだ。しかし意外にも、答えをくれたのは眼前の彼だった。


「いや、君はあの男が愛しいはずだ」


 いつも通りの、自信に満ちた明瞭な声音。目の縁に涙を溜めたエレナに気づき、ワルターは軽い調子で肩を竦めた。この場で涙など、我ながら卑怯だ。


「今後のために言っておくが、分からないだなんて言ってはいけないよ。相手が僕じゃなければ、修羅場になっていただろうからね。……ああ、何が悲しくて妻にこんなこと」


 声を出せば震えてしまいそうで、エレナは黙って顎を引く。


「本当は、最初から知っていた。あなたの心の中にはずっと、彼がいることを。それでも、星の騎士セレスダは死者だった。死者があなたの心を捕えて離さなくとも、それは些細な問題だと思っていた。僕自身、死人に負けるほどの人間でもないと思っていたしね」


 でも違った。ヴァンは生きていた。青い目の魔人が使臣としてやってきた日にメリッサは、「ヴァンがもう戻って来なければ良かった」と言っていた。それはワルターが語ることと、きっと同じ理由だろう。


「あなたを生涯慈しむのだと思ってきたし、時間さえあれば幸せにする自信もあったのだが」

「私はこれからもあなたと」

「いや、それは良くない。これ以上の情が生まれる前に、我々は離れるべきだ。互いのために」


 その言葉の意味が腹落ちすれば、胸から込み上げたものが喉元を遡上し、涙として溢れ出すのを止めることはできなかった。何に対する落涙なのか、それすらも分からないが、ただ一つ確かなのは、エレナには涙など流す資格がないということ。エレナは零れ落ちるものを拭って、腹に力を込めて心の震えを抑えようとした。


「きっとこれが運命だった。彼が帰って来た時、もっと早くあなたを自由にしてあげるべきだったのだ」


 そこには慈しみがあった。ワルターとて、このようなことは口にしたくなかっただろう。それでも彼は、ややぎこちない笑みを浮かべた。


「僕だって、妻に逃げられた男と噂されるのは本意ではない。さらに、王太女の不在でこの国が混乱に見舞われぬようにもしないといけない。方法は僕が考えよう。だからあなたは、アリアレッテが言ったことだけを考えればいい。どうやって星の騎士セレスダを救うか。それだけでいい」


 最後に、意志を確認するような視線が向けられた時、この慈愛に満ちた知的な目が年老いて、端正な顔に深い皺が刻まれる日を、どこかで見たような気がした。彼と同じ若草色の瞳の幼子を腕に抱き、その成長を愛おしく見守る。温かく、平穏で幸福な生涯。


 それは幻覚だろうとは思えども、この道に紡がれなかった運命の一部には、そのような未来があったのかもしれない。……あるかもしれなかった運命。いったいどこで聞いた言葉だったか。


 エレナは視線を受け止めて、小さく口を開く。謝罪は違う気がした。感謝も配慮がない。何一つ気の利いた言葉は浮かばない。誰もが羨むワルターの手を離すだなんて、どうしてそんなことを。零れ落ちたのは正直な感想であった。


「私は、馬鹿ですね」

「ああ、もったいないことをしたね」


 まさか本気ではないだろうが軽い調子で言ってから、ワルターはエレナの背中に軽く腕を回す。その胸に頬を寄せて、確かな鼓動に耳を傾けた。それが最後の抱擁になることを、二人は理解していた。

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