12 涙の封印が解ける時

 ※


「お初にお目にかかります。アリアレッテと申します」


 実際に言葉を交わすのは初めてであるが、その姿は過去に目にしたことがある。ヴァンが使臣としてやってきた際に、影のように付き従っていた長身の女性である。謁見室内には客人アリアレッテとエレナ、ワルターとイアンという最小限の人数だ。


 ワルターと客人は、エレナが塔に幽閉されている時期に何度か言葉を交わしたことがあり、イアンにいたっては捕虜返還の際にアリアレッテの同行を受けたため、互いのことを幾らかは知っているようだった。


 エレナは簡単に挨拶を済ませ、遥か北方のオウレアス王国首都よりやって来た使者に、用件を促した。アリアレッテは表情の薄い頬のまま、短刀直入に告げる。


「勝手なお願いとは存じますが、スヴァン……あなたの星の騎士セレスダであった彼を、止めていただきたいのです」

「止めるって……ヴァンは無事なの? 今どこに?」


 消息不明となった簒奪王の話題は国中に広まっているのだが、どこからも目撃情報が上がらないことから察するに、すでに外洋に出たか、もしかすると生きていないのではないかとも噂されていた。ワルターも寝耳に水だったようで、やや身を乗り出す。


「無事、というのは肉体が五体満足か、ということでしょうか?」

「え。あ、うん。そうとも言えるわね」

「それであれば、無事です」


 エレナは困惑して、隣に座るワルターに視線を向ける。彼は小さく肩を竦めた。どうやら彼女は常よりこんな調子らしい。


「ではアリアレッテ。肉体以外は無事ではないということかい」

「無事、の定義が不明ですが……。彼の意志はその行動に反映されていない状況のようです」

「それはつまり、精神を乗っ取られているということか」

「乗っ取る、というよりは彼の精神が変質している、というのが正しいでしょう。彼は今、ほんの小さな刺激があれば、なりふり構わず周囲を破壊するような、一種の洗脳状態に陥っています」


 意に添わぬ破壊と虐殺。己の身の内の猛獣に取って代わられること。それは幼少の頃よりヴァンが最も恐れて来たものではなかっただろうか。


「洗脳。それは、内なる存在が彼を食い尽くした、ということか」


 ワルターの言葉を耳にし、エレナは驚きに眉を上げる。ヴァンがその身に何者かを宿しているといたことを、彼も知っているのか。エレナの視線を受けて、ワルターは軽く首を振る。きっと別の機会に話してくれるだろう。今は眼前の女の言葉を聞くことに注力するべきだ。


「殿下、それは少し異なります」


 アリアレッテは女性にしてはやや低い、落ち着いた声音で語る。


「内なる存在は、我々の神です。あのお方は戦いを好むとはいえ、本来善良な存在。にもかかわらず、依代であるスヴァンの精神と融合したことで、歯止めを失い、その過激な面を強調する暗示を掛けられているのです」

「融合か……その暗示とは?」

「我が故郷に伝わる一種の催眠術です。ですが今は、それを掛けた者ですら手に負えない状況になっています。彼を利用しようと企んだ者は、一人残らず灰になりました」


「灰って……」


 声を震わせたエレナに、アリアは曖昧に首を振って答えない。それが回答だった。


 ヴァンを操ろうとした黒幕が命を失おうが、そんなもの自業自得ではないかと思ったが、ヴァンが苦しんでいるのであれば放置する訳にはいかない。彼が進んで人を傷つけるはずはない。きっとアリアが言う通り、暗示により操られているのだ。


 ヴァンの自我は、感覚は、今もまだその身に残っているのだろうか。もしそうであれば、とてつもなく残酷だ。


 しかしなぜ、アリアレッテはエレナに助けを請うのか。胆力にも優れず、知略に富んでもいないエレナには、何の力もない。しいて言えば岩の宮と星の宮の財産と人員を動かす権力くらいのものである。それらは強権とはいえ、ヴァンを救うことに何ら関連しないではないか。


「私に、何ができるでしょう。彼は私を処刑しようとしたのよ」


 アリアレッテの紫紺を帯びる黒玉の瞳が、真っすぐにこちらを見上げた。それから遠慮のない視線でワルターの表情を観察した後、暫しの逡巡の末に彼女は言う。


「彼があんなことをするとは、私も思っていませんでした。ですがきっと、思惑があったのでしょう。彼は、我々の側に下った時から一貫して、あなたの身の安全と聖サシャ王国の安寧だけを求めていました。結果的に殿下はご無事ではありませんか」

「でも……そんな訳ないでしょう」


 切り返すが、アリアレッテは答えない。彼女どころか、ワルターやイアンまでもが固く口を閉ざした。まさか、この場にいるエレナ以外の全員が、ヴァンの真意を知っているのだろうか。だとすればとんだ茶番だ。


「それで」

 沈黙を破ったのはワルターである。

「いったい我々に、どうやって彼を止めよと?」


 アリアレッテは淡々と答える。


「王太女殿下にお越しいただきたいのです。彼のところへ」

「できかねる。なぜそのような危険な場所に、彼女を遣らねばならないのか。暗示をかけた者ですら制御できないのだろう」

「彼女にしかできないからです。我が主とスヴァンの契約は、まだ有効と思われます。その契約内容は、星の姫セレイリの安全を守ること。であれば彼は、あなたにだけは手出しできない。あなた方が絆を得たのはきっと、大いなる存在の意志です」

「だがそのようなこと、どう証明するのか」

「残念ながら、証明のすべはありません。ですが」


 アリアレッテは表情一つ変えずに、恐ろしいことを告げる。


「彼を止めなくてはオウレアスだけでなく、サシャまでもが甚大な被害を被るでしょう」

「なぜ?」

「スヴァンは最終的に、北に戦いを挑み、の地を奪還しようとしているからです。それは主神の悲願でもありました」

「北?」

「オウレアスではありません。もっと北……北部山脈の向こう、あなた方から見れば異教の地。私やスヴァンを擁立する者らからすれば、故郷となる地です。彼の地の文明は、こちらとは一線を画しています。攻め入られれば、三神の地は残念ながら、抵抗らしい抵抗などできず簡単に踏み潰されるでしょう」


 あまりにも壮大な話である。三神の地に住まうエレナらにとって、世界と言えば聖サシャ王国とオウレアス王国のみに等しい。もちろん知識の上では、大洋の遥か果てや北の山脈の向こうには、他にも人の営みがあるのだと知っている。しかしそれは、遠く実感を得られぬ、いわば物語中の世界のように、ぼんやりとした認識だ。


「スヴァンは今も、一人苦しんでいるのでしょう。自由にならない身体で、誰かの慈悲の一太刀を待ち続けている」

「暗示を解く方法はないの?」


 アリアレッテは首を横に振る。


「おそらくありません。現在彼は、私の里にて眠りの暗示に落ちています。ですがそれも永遠には続きません。本当の意味で彼を止め得るのは死のみでしょう」


 死。その響きに、エレナは身震いをする。鈍器で頭頂を殴られたかのような衝撃。死んだはずだった星の騎士セレスダが、生きていた。しかし彼は再び遠くへ行ってしまう。しかもアリアレッテは、エレナ自らヴァンに手を下すようにと言っているのだ。言葉に詰まったエレナだが、冷淡に響く女の声は止まらない。


「あなたが彼を止めなければ、誰かが彼の命を奪うでしょう。しかしそれには多大な犠牲がつきものです。そもそも、彼はあなたを守るためにこうなったようなものです。ですから今度はあなたがスヴァンを」

「もう、そこまでにしてくれないか」


 拳でひじ掛けを叩き、ワルターがいつになく鋭く言う。さすがのアリアレッテも、口を閉ざした。


 静まり返った謁見室の面々を見渡して、アリアレッテは短く付け加える。


「後悔なさらぬよう。死人に言葉をかけることはできませんから」


 険しい表情のワルターを一瞥し、アリアレッテが最後の一礼を寄越す。心は籠ってなさそうに見えるが、その動き自体は優雅だった。


「それでは、ご検討を」

「待って」


 思わず引き留めてしまったのは、彼女の彫刻のように動かなかった頬が、微かに苦痛に歪んだように見えたからだ。


「あなたも、後悔したの」


 アリアレッテは微かに眉を上げる。


「誰かを亡くしたのね」

「私は」


 しばしの躊躇の末、アリアレッテの唇から言葉が滑り出る。


「私には、あの方に告げるべき謝罪が」


 ぽつりと呟いた己の声に戸惑うように、アリアレッテは直ぐに言葉を呑み込む。それ以上語らず即座に踵を返したその背中に声を掛けたのは、意外にもイアンだった。


「アリアレッテ……、アリア殿」


 打たれたように彼女は脚を止める。肩越しに振り向いて、目を驚きの形に見開き、エレナの横に立った銀髪の元捕虜を見上げた。イアンはその場の注目を集めてややたじろいだが、言葉を続けた。


「失礼だがあなたは、百日王の……」


 途切れた問いかけに、アリアレッテが首を傾ける。イアンがヴァンと共謀し、百日王と呼ばれたヴァンの異母兄を殺めたのだということは、アリアレッテも知っているだろう。彼女にとってはイアンも……ヴァンですらも、主君を葬ったかたきであるはず。にもかかわらず、彼女の態度に怨恨は見えない。


「いや、この際何でも良い。あの王の最期の言葉を、あなたに伝えなければいけない」


 いよいよ鉄面皮はなりを潜め、微かに怪訝そうな表情になったアリアレッテ。エレナも、イアンがなぜ急に必死になったのか、理解が追い付かない。


「彼は最期に謝罪の言葉を口にした。『すまない』と。確かに、君の名前を呼んでいた」


 その言葉に、アリアレッテはやっと見え隠れした一切の表情を失う。茫然としたようにイアンを見上げて、黙り込む。そのまま彫像のように動かなかったが、たった一筋、頬に光るものが伝った。その清らかな煌めきに、胸が締め付けられる。


 そうか、彼女は大切な人……きっと、とても愛しい人を謀略の中で亡くしたのだ。それなのになぜ。イアンを罵倒もせず、あろうことかヴァンの身を案ずるような動きをするのだろう。


 アリアレッテは、謝罪したい人がいると言った。それがもし、イアンが心に浮かべた人物と同じだったならば。彼らの心はすでに繋がっていた。アリアレッテの大切な人も、最期の一瞬まで彼女に謝罪を伝えたかったのだ。


 静かな涙を見て、イアンが視線を逸らす。いたたまれないだろう。争いの渦中とはいえ人の命を奪うということは、彼らを愛した誰かの腕から、その存在を奪うこと。


 アリアレッテは悲嘆を振り切るように唇を噛んで、目礼をする。言葉なく、今度こそ謁見室を辞した。彼女の目が涙を流したのは十数年ぶりであることなど、謁見室に残る者らは知る由もない。


 ただ、静かに閉じた扉を眺めて、エレナは胸の痛みを堪える。アリアレッテの姿に自分を投影し、知らず胸を押さえた。


 ヴァンは、エレナのために犠牲になったのだという。それが真実なのだとしたら、エレナこそ、彼に謝罪をせねばならない。あろうことか、ヴァンに最後に告げた言葉の一つは、「私を憎んでいるのか」だ。


 ヴァンが本当に己を滅し、星の騎士セレスダの誓いをいじらしく守り、エレナの剣となり盾となり、命尽きるまで守ろうとしてくれたのであれば。あの言葉はどれほど残酷に聞こえただろうか。


「エレナ」


 穏やかに呼びかけたのは、ワルターである。顔を向ければ、彼は静かな草原のごとく柔和な双眸で、こちらを見つめている。


「少し、二人で話そう。イアン、悪いが外してくれるかい」

「……御意に」


 イアンは胸に拳を当て一揖いちゆうしてから段を降り、扉の横で律儀にも再度礼をしてから姿を消した。


 沈黙の帳が落ちる。見つめ合ったまま、エレナはワルターの思考を窺い見ようとするも、その表情からは何も察することができなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る