11 医療院の一室より

※ 


 とても良く眠った。それが最初の感想だった。夏の陽射しにしては低い陽光が窓から差し込み、涼やかな風がレースのカーテンを揺らす。横たわるのが自身の寝室でないことはすぐに気づいたが、まさかここが医療院の病室であるとは、その声を聞くまで思い至らなかった。


「で、殿下……!」


 上ずった声に視線を遣れば、研修医然とした初々しい青年が、手にした手桶を取り落としそうになってから慌てて空中で受け止めていた。青年の声が廊下に漏れたのか、何事かしらと思う間もなく扉が開き、見慣れた銀髪の騎士が姿を現した。おそらく、護衛の任にあたるため、扉の外に控えていたのだろう。


「エレナ様……」

「イアン?」


 何を慌てているのだろうと、横になったまま首を傾ければ、常に生真面目な表情を崩さぬイアンにしては珍しく、感極まったように顔を歪めたのだから、エレナの方がたじろいでしまう。


「どうしたの」

「よく、戻っておいでくださいました」


 寝台の横に駆け寄り膝を突いて、エレナの左手を両手で包み込む。それを額に押し当てるようにして俯いたイアンを見て、彼はどこかおかしくなってしまったのではないかと思った。そもそも、彼が捕虜から解放された後、腰を据えて言葉を交わす機会すらエレナにはなかったので、無事を安堵するのはこちら台詞だ。


 病棟とは思えぬ騒がしい足音が響き、初老の宮廷医長がやって来る。仏頂面が板についたこの男ですら、信じられないものを見るような目で、こちらを見下ろしていた。


 彼の驚きはさすがに束の間のことで、埃でも払うようにイアンを脇に追いやると、慣れた動作でエレナの脈を取り瞳孔を確認する。続いて自分の名前を言えるかと問い、あろうことか数字を昇順に数えさせた。


 全てを指示通りに終えてから、問題なしと呟いて頷く宮廷医長に、エレナは眉を寄せる。


「あの、私に何か……」


 口にしかけてふと思い出すのは、あの劫火。灼熱の舌に舐められても、火傷一つなかった己の肌。慌てて腕を眼前に掲げ、引き攣れがないことを確認して安堵する。


「あの日、何があったの」


 記憶が確からしいエレナの様子に胸を撫で下ろしたのか、イアンが幾らか平静を取り戻した様子で説明した。


「あなたは神の奇跡によって生かされたのです。あの炎の中から、傷一つないあなたの姿が見えた時に、人々は口々に噂しました。これは神が紡いだ運命であると」

「神が紡いだ……」


 それに近い言葉を最近耳にした気がしたが、いつ聞いたのか記憶の表層にはない。もしかしたら夢だったのだろうか。記憶の糸口を掴みかけたのだが、続くイアンの言葉を聞けば、それは指先をすり抜ける。


「殿下はあれから、二か月も眠ったままだったのです」

「二か月?」


 驚愕に思わず復唱してしまう。人間は飲まず食わずでそれほどの長期間、眠り続けることができるのだったか。冬眠した熊でもあるまいに。


 エレナはひとまず腕を突いて寝台から上体を起こす。研修医らしい青年が心配そうな視線をくれたが、一晩眠っただけのようにすっきりとした体は、不自由なく動作した。寝たきりだった割には、筋力の衰えもない。


 ちょうど視線の高さに窓があり、外に視線を遣れば、庭園の紅葉樹が赤や黄に色づいていた。秋口の空が青い。確かに二か月ほどは経っているようだ。


「何がなんだか……」


 頭を抱えれば、頭痛がするのかと医師に問われたので、おちおち驚愕にも浸れない。騒がしい来訪は続く。


「エレナ様!」


 今度の声は女性で、すでに泣き腫らした後のような鼻づまり声だ。彼女は部屋に飛び込むなり、エレナを抱きすくめる。その柔らかな腕は幼少の頃よりこうやって、エレナを慈しんできてくれた。


「メリッサ」

「エレナ様、本当に……本当に良かった……」


 大袈裟な、と口から飛び出しかけたが、一晩存分に睡眠を取った心地のエレナと、二か月も意識の戻らない王太女を世話してきた彼らとでは、感覚は天と地ほどの差があって然るべきだ。


「心配かけてごめんなさい」

「良いの。良いのです。あなたが無事なら」


 嗚咽を繰り返す育ての母の声に、思わず目に涙が浮かぶ。瞬きして落涙を抑え込んでいたところ、母の肩越しに、やや乱れた髪でやって来たワルターの姿を見た。


「無事で……」


 どこから走って来たのか、息が切れている。メリッサが鼻を啜りながら腕を解き寝台の横を明け渡せば、彼は腰を屈めて、エレナの手を取った。


「良かった。何と言っていいか……」


 そこで彼は口を閉ざし、握った手を躊躇いがちに撫でる。彼の憂いは理解できる。あの処刑台の上から見上げた貴賓室に、ワルターは波の王オウレスと共に座っていた。エレナをこのような目に遭わせた原因の一端は、ワルターにもあるのだ。


 それでも最後に「恐ろしかっただろう」と囁いたその声が、罪悪感と安堵に震えていたのは耳に焼き付いていた。策士である彼のこと。何らかの思惑と確信があり、エレナを火に晒したのだろうと、妙に冷静に推察した。エレナは彼の負い目を振り払おうと、首を振った。


「大丈夫。あなたはやるべきことをやっただけ。そうでしょう?」


 その囁きに、ワルターは僅かに目を見張る。エレナの言葉に秘められた問いかけの意志も察したようである。彼は口を開き、しかし発しかけた言葉を呑み込んだようだった。代わりに、躊躇いがちに握っていた手を固く繋ぎ直してから言った。


「あなたには話さなければいけないことがある。だが今は、ゆっくり休んでくれ」

「私は元気よ」

「そのようだが、宮廷医は許さないだろうね」


 苦笑交じりに肩を竦めたワルターのおどけた仕草を見て、エレナはやっと現実に返った心地になる。宮廷医長は、早くも溢れ返った見舞い客に、追い立てるような視線を向けていた。それが次期王配にまで向かうのだから、この男はなんとも肝が据わっている。


「そろそろよろしいですかな、皆様方。王太女殿下の御身には尋常ならざることが起こったのです。至急精密検査が必要かと」 

「ああ、お騒がせしたね。良く診てやってくれ」


 痺れを切らして淡々と述べた宮廷医長に一同は面食らったものの、ワルターが呆気ない調子で返したので反論する者はいなかった。エレナとしてはむしろ、普段よりも爽快な気分なのに、また奇妙な検査をされるのかと思えば気が滅入る。それでも大事を取ってと言われてしまえば、専門家に抗うことはできなかった。


 このような調子で、目覚めてからの二日間は、いったい何の確認なのかもわからぬような検査を施され、辟易した頃にやっと健康体との診断が下りて、三日目の昼過ぎになって自室に戻ることが許されたのであった。折しもその日は、北方オウレアス王国より、とある来客があった日である。

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