9 異国の神は目覚める
肩を貸そうとしてくれるイアンに感謝しつつも、それを表す余裕はない。額から脂汗が一筋流れる。ヴァンは必死にイアンの肩に寄りかかり、一段ずつ階下に脚を進めた。
身体の自由が利かない。体調を案じるイアンの声も、水底から耳を澄ませたかのように遠くぼやけて聞こえる。かと思えば不意に意識が明瞭になり、確かな足取りが戻る。ヴァンとクロ。その意思とは無関係に、どちらが身体の主導権を握るのか、せめぎ合っているかのようだ。
――クロ、そろそろ潮時かもね。
――おい、何気弱なことを言ってんだよ。もうちょい頑張れって。
――らしくないね。あんなに僕の身体を欲しがっていただろ。
――気色悪い言い方するな。
余裕のない状況下ながら、ヴァンは小さく笑った。怪訝そうにイアンが一瞥を寄越す。
――そろそろ、君に報酬をあげないと。
――もういいのか?
ヴァンは軽く顎を引いて首肯した。
――エレナもサシャも、もう大丈夫だ。君は僕の願いを聞き遂げてくれた。
――いやいや、これからが激動だろ。オウレアスとのことは何も終わってない。
――この前署名したあれがあるでしょ。
――お前もあいつも結局は正式な王じゃないしな。そもそも俺が
「ここでいいか」
イアンの言葉に顔を上げると、そこは貴賓用の控室だった。闘技場の一室とはいえ、高貴な者らが利用する部屋である。こちらも黒と銀を基調としたサシャらしい調度品が並び、上質な空間だ。ただし、もちろん今のヴァンには悠長に室内を観察する余裕などない。
横になれるほどに長いソファに横たえてもらい、天井を仰ぎ見る。仰向けになったところ、重力で胃部が圧迫されて嘔気が増したので、横向きになって呻いた。
「ヴァン、何か必要なものはあるか」
ヴァンはイアンの膝の辺りを眺めながら、首を横に振ろうとしたのだが。
――そういや、あれが手元にあれば。
不意に思い至ったように、クロが言った。
――あれ?
――あれだよ、俺の本体。
――粉々になったやつ?
――ああ、イアンが砕いたやつな。元々はあれが俺の神気の源で、この身体に流れる力を制御できる神具だ。
それほど重要なものだったとは思ってもみなかった。見た目はただの石器で、今となっては、ただの粉末と小石なのだが。
「イアン、第二執務室から、クロの本体を持ってきてくれないか」
「クロ……、ああ、あの黒い粉か」
――お前が粉にしたんだろうが。
クロの怒りの声を受け流し、ヴァンは頷く。必要なものがないかと訊いたイアンとしては、頭部を冷却する冷水や嘔吐した際に必要になる壺など、実用的な物を想定していたのだろうが、彼は素直に了承する。
「わかった。執務室のどこにある」
「金庫の中。鍵は……ここ」
懐から鉄鍵を手渡せば、イアンはそれを力強く受け取り、青い瞳に一抹の不安を覗かせた。
「すぐに取って来るが、お前は大丈夫なのか」
「心配しないで。また後で話そう」
辛うじて口の端に笑みを浮かべれば、イアンからもぎこちない微笑みが返って来る。彼はそのまま踵を返し、急ぎ足で部屋を出た。その黒衣の後ろ姿を見送ってから、ヴァンは逆流しかけた胃の中のものを飲み込んだ。
細く息を吐いて、目を閉じる。視覚の情報を遮断してしまえば、いくらか気持ちが楽になる。ずっと、視界が歪むように回転していたことに、今更ながら気づいた。瞼の裏で、室内の仄かな明かりを透かし見る。それは不意に、遠い日の柔らかな木漏れ日と重なった。
誰かがヴァンの手を引いている。隣で歩幅を合わせて歩んでくれる人物の影が長い。それを追いかけて戯れに踏んづけようとする己の視界が、とても低く感じられた。
視線を上げれば、陽光を浴びてこちらを見下ろす女の姿。顔には靄がかかり容貌は見えないが、その眼差しが慈愛に満ちているだろうことは不思議と知れた。それが記憶の片隅にしかない母の姿であることも、ヴァンは理解していた。
暖かな日々だった。ずっとこのまま、貧しく慎まやかに生きていくはずだった。何もなければ、剣に触れることすらなく、静かに年老いていったのだろう。だが、この身には異国の神が宿っていた。
クロを憎みはしない。彼も好きでこうなった訳ではないし、幾度もヴァンの命を救ってくれたのもクロだ。そして彼がヴァンの波の加護を隠したからこそ聖サシャ王国に保護されて、エレナやイアンといった、王宮の面々に出会うことができた。その絆は何にも代えがたい。
例えヴァンの自我が消失するのだとしても、クロならば、この身を悪いようには使わないだろう。不摂生と女遊びが心配だが、口ぶりの割に案外善良なこの神ならば、ヴァンの意志を汲み、おかしなことはしないだろうと信頼をしていた。……だが、クロがクロではなくなり、ヴァンがヴァンではなくなるのであれば、話は少し異なる。
「お苦しいでしょう、我が君」
ふわり、と鼻先をくすぐる甘ったるい香りで、それが訪れたことを察した。ヴァンは薄く瞼を上げる。
細い視界に映ったのは、どこかで見たような顔。艶やかな黒髪と、光の加減で紫を帯びる瞳。アリアと同じ色合いだ。しかしその頬には作り込んだような笑みが張り付き、媚を売るように細められた目がこちらを見下ろす。
「里の……」
あの祭祀の宵、ヴァンを催眠術に嵌めた巫女の一人だった。なぜ彼女がここに。
「覚えておいででしたか。あなたは、簒奪王?」
どちらが言葉を発しているのか、という問いだろう。答える義理はないし、彼女も回答は求めていないらしい。
「まあ、どちらにしても同じことです。あなたはもうすぐ、主神と一つになる。さあ、こちらを。楽になりますよ」
鼻先に、手のひら大の香炉が差し出される。甘い香りだが、以前里で嗅いだものとは異なる種類だと分かった。前回は甘美な媚薬のような甘いだけの香り。此度のものは、その香りの奥底に少し
巫女の言葉どおり、頭に靄がかかり吐き気は遠のく。あの宵行われたことは、今日のための予行だったのだろうか。巫女の狂気を孕んだ声が、鼓膜を叩く。
「この日を待ち侘びておりました。あの晩、あなたがあのまま眠りに落ちて、私どもと一晩過ごして下さったのならば。催眠は深まり、とうに主神を目覚めさせていた事でしょう。
けれど剣守が……あの自分勝手な女が百日王の駒とするためにあなたを連れ出したがために、一年近くも無駄な時を過ごすことになったのです。我々も表立って、主君たる
ヴァンはアヴィンの手駒として、青い目の魔人となり策略に力を貸した。あの里でクロと同化をしてしまったならば、そんな未来もなかったはずだ。だからアリアは里の意志に反してでも、ヴァンを救い出したのだろう。
「剣守の定期連絡文により、剣がさらに砕けてしまったことを知ることができたのは僥倖でした。これほど不安定な状況下で神力を酷使するなど、自己犠牲の精神に胸が痛みます。あなたが命を賭して救った女は今どうしているとお思いですか。誰のお陰で神の子として崇め奉られているのかも知らず、あなたを憎み恐れている。
聖なる剣の代わりに神の依代となった哀れな男。最初からあなたは、いつか神の贄となり、消えゆく運命だったのです」
全てはヴァンが望んだことだった。これがエレナとサシャのために最善だと思えたから手配をしただけのこと。そこには一切の後悔はない。そう吐き捨ててやりたかったのだが、身体は微動だにしない。
ちりん、ちりん、とこの場にそぐわぬ涼やかな音が鳴る。巫女はまだ何事かを
香炉から漂う一筋の白煙が、ヴァンを混沌へと誘う。また前回のように、身体の主導権が入れ替わるのだと、そう思った。だがそれは違っていた。
「……!」
視界が大きく歪む。そればかりか、天地の別が分からなくなり、己の身体とソファーの境が曖昧になる。どこまでが自分の身体なのだろうか。伸ばした指先が何に触れたのかもわからない。果たして伸ばしたのが本当に指だったのかも。こうして思考する精神すらも、混沌に吞まれる。
最後に感じたのは、烈火の如く怒りと、氷に閉ざされたような悲嘆。そして一切の寄る辺をなくした赤子にでもなったかのような、虚無感にも近い絶望であった。
それらが濁流のように押し寄せて、ヴァンの自我を呑み尽くす。初めて感じたと言っても過言ではないほどの、暗き感情の圧迫感。それは、クロ……かつて冥界の神でもあった存在が、延々と死者を迎え続けて抱え込んでいった闇であったのだと察する。その激情は、到底人の身では受け止め切れない。
ふつ、と張り詰めた糸が途切れた音がして、世界が暗転した。
ヴァン……否、ヴァンだったものは、ゆっくりと立ち上がる。その所作には隙が無い。つい先ほどまで息も絶え絶えに嘔気を堪えていた男とは思えぬ動作。巫女はそれを見て、紅を引いた艶やかな唇で弧を描く。それから両膝を突き、両手を軽く重ねてその上に
「よくぞお戻りになりました、我が君。共に参りましょう。戦い、守るために」
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