8 奇跡の後


 酷い頭痛がする。死んでしまった方が楽かもしれない。そう思えども大きく空気を吸い込んでしまうこの身体は、意に反して生きることを切望しているらしい。


 エレナは咳込みながら体を起こす。右腕に体重を乗せ、左手を地に当てて上体を起こし、ゆっくりと瞼を上げる。晴天の下、己の腕の白さと、地を擦った際に肌を汚した煤の黒が対照をなして目に映る。視力は健在のようだ。ぼんやりと頭を上げて、肩を流れる髪が一寸も焼け焦げていないことに気づいた。


 辺りを見渡せば煙で満たされていた。先ほど空気を吸った際に喉を刺激したのはこれだろう。もう一度腕を見下ろす。腕どころか胸も腹も白い。エレナは一糸纏わぬ姿であったが、この状況を妙に冷静に受け入れていた。


 祭祀用の貫頭衣は焼け落ちてしまったのだろう。足元に積まれていたはずの藁や薪は、もはや灰と化していたが、この身だけは髪一本の先まで全くの無傷である。これではまるで。


「奇跡だ……」


 誰かが呟いた。顔を向ければ、焚刑を執行した小柄な男だった。顔は被り物に覆われて見えないが、おそらく驚愕の面持ちが隠されているのだろう。エレナは脈打つような頭痛を堪え、緩慢な動作で首を巡らせる。観客席の騒めきは、大きくなっている。


「奇跡だ」

星の女神セレイアが、御子を生かしたのだ」

「いや、岩の神サレアかも知れない」

「あのお方は本当に、神の子なんだ」


 誰かが腰を屈めて祈りを捧げ始めると、それは雨粒が水面を打つ波動のように伝播する。エレナを廃そうとしていた過激派も観衆の中にはいただろうが、誰一人祈らぬ者はいなかった。


 エレナは、煤に汚れはしたものの、焼け爛れることはなく未だ滑らかな感触を保つ手のひらに、視線を落とした。


(何があったのだったかしら)


 思考に靄がかかり、記憶が朧だ。爪先から焼かれ、死の苦痛に苛まれたまでは覚えている。しかしその後。何か、長い夢を見ていたような気がするのだが、あれは何だったか……。


 不意に、温もりに包まれて、エレナの意識は処刑場に引き戻された。肩から下、素肌を観衆から覆い隠すように、黒色の外套が掛けられて、背後から布ごと包み込むように力強い腕に抱き締められる。


「すまない、恐ろしかっただろう」


 耳元で囁く聞き慣れた声に、エレナはほっと息を吐く。鎖骨の辺りに回された彼の腕に指を添える。互いの指には白銀の指輪が煌めいていた。



 酷い吐き気がする。それでもヴァンは壁を伝いながら、階下へと下った。貴賓席から外部へと続く緩やかな階段は、岩の王サレアの色である漆黒の敷物で覆われて、足を踏み外さぬように段の端が銀糸で縁取られている。


 今すぐに座り込みたい。だが、こんな場所で蹲ろうものなら、騒ぎになってしまうだろう。せめて控室か人目に付かない場所まで行って、ワルター辺りに回収をしてもらわねば。


 ――ヴァン、大丈夫か。


 心底案じているらしい声音が脳内に響く。


 ――ああ……。何とか、歩ける。

 ――無理するなよ。人の身体には俺の神力は重すぎるだろう。なんだか、今回は俺まで吐き気がしてきた。……だからやめとけって言ったんだ。火に焼かれる人間を傷一つなく保つだなんて。こうなることは忠告しただろ。

 ――後悔はしてないよ。

 ――お前って本当に……。


 声帯を震わせなくとも会話が成り立つのは、クロとヴァンの全てが融合し始めているからなのだろうか。このまま時が経てば、己の自我は消えていくのか。それとも、以前のクロのように、ヴァンの精神が眠りにつくのだろうか。


 この身体に起こった変化は、クロの言葉通り想定の範囲内だ。不快感はあったが、一種の諦観に満たされたヴァンにとっては恐ろしい感覚ですらなかった。あの日、初めてクロがこの身体に同居していると理解した時から、最後はこうなると知っていた。エレナやサシャを守るため、剣の神の力を借りる代償に、目的が達せられた暁には、この身をクロに明け渡す契約だったのだ。


「ヴァン」


 壁に縋りつくように立ち止まっていたヴァンの腕を、黒岩騎士団の黒衣が掴む。顔を上げれば、見慣れた銀色の頭髪と青の瞳。


「イアン。どうして、ここに……」


 ヴァンを守護するのは本来は紫波騎士である。イアンら黒岩騎士ならば会場の警護に就いているはず。もしくは王族と貴賓の警護か。


「話は後だ。すぐに宮廷医を」

「いや、それはいらない」


 すぐにでも駆け出しそうな友人の腕を掴み、引き留める。思いの外しっかりとした握力に、彼は目を見張ったようだった。ヴァンは荒い息を吐きながら、首を振った。


「医術でどうにかなるものじゃないよ」

「それは……エレナ様を火から守った代償か?」

「なぜそれを……」


 言いかけて、口を閉ざす。この計画を他に知っているのは、ワルターだけだった。とすれば必然的に、彼がイアンに告げたのだろうと分かる。


 エレナが形だけでも波の王オウレスの妃になるのであれば、彼女に告げたとおり自らが王となり、全ての災厄から守ろうと思った。世論はエレナの処刑を望むかもしれない。だがそれは些細な問題だ。彼女に向けられる悪意を退けるだけの権力を手にすれば良いだけのこと。


 しかしエレナは、北へ向かうことを受け入れなかった。生まれ育った国に義理立てをしたのか、単に王宮を離れたくなかったのか。もしかしたら、夫を愛していたのかもしれない。


 彼女の真意は掴めぬが、ヴァンはエレナの身体だけでなく、心も守りたいと思った。だから、ちょうど剣守の里で獣に切り裂かれた傷を癒したのと同様の方法で、クロの持つ生物に干渉する力を使い、女神に捧げられた星の姫セレイリが神々の意志によってこの世に蘇ったかのように見せかけることにしたのだった。神により生かされた存在を抹殺しようとする人間など、この地にはいないのだから。


 クロは一連の計画を「歪んでいる」と思ったらしく、執行間際まで中止させようとしていたのだが、ヴァンは聞き入れなかった。確かに炎に焼かれることは恐ろしいだろうが、エレナの全てを守るためには、これしか方法はないと思えたのだ。


 上階の喧噪を背中越しに聞けば、ことは目論見通りに成功を収めたのだろうことが察せられる。後はレイザ公爵の次男が、上手くやってくれるだろう。


「全部、彼から聞いたのか」


 想定以上に冷たい声が口を突いて出る。イアンは曖昧に首を振っただけだったが、誤魔化されても答えは明白だ。


 ワルターとヴァンだけの計略としたのには理由わけがあり、このことが漏れてしまえばエレナが星の女神セレイアないし岩の神サレアの意志で生かされたとは認識されなくなってしまうからだった。


 特に現在は、王宮内であっても敵味方が判然としない。また、仮に民衆にまで噂が広がらなかったとしても、誰かの振舞いに出てしまい、エレナ本人に知られるのも具合が悪い。彼女は顔に出やすいから、刑場で民衆を信じ込ませるだけの演技を見せることなどできないだろう。


 ヴァンの気など知らず、独断でイアンに詳細を告げていたことに苛立ちを覚えない訳ではない。しかし、先日まで捕虜として拘束されていた上に、ヴァンとエレナの幼馴染でもあるイアンならば、信ずるに値するというのは道理である。更にイアンはヴァンと共謀し、アヴィンの首を斬った人物だ。


 このに及んで実は敵方だったなど、考えづらい。あの男はそう判断をしたのだろう。イアンを寄越した理由はヴァンを案じたためだろうか。それともただ、自我を失ったヴァンがサシャに牙を剥かぬよう、見張りを付けたかったのか。


 イアンの顔を眺めるため、頭を上げていたところ、再度急激な嘔気おうきに襲われる。いよいよ足元に身を屈めたヴァンに、イアンは視線を合わせた。


「ひとまず控室に行くか」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る