7 夢か現か③

「あれが新しい星の姫セレイリか」


 エレナは群衆の中にいた。新しい星の姫セレイリ。耳にしたその言葉に、束の間理解が及ばない。それも一瞬のことで、記憶が収斂しゅうれんするように、急速に腑に落ちた。


 そう、確か先代の星の姫セレイリは女神に捧げられ、数日を置いて後継者が立ったのだ。当代の星の姫セレイリは、まだ赤子だ。


 その職位を受け継ぐ姫は、先代が女神の御許に召された時期に生を受けた、黄金色の瞳の女児の中から選定される。エレナも女神の加護の印たる黄金色の瞳を持ってはいたが、先代の選定の際に選ばれることはなかった。


 ただし、何かが違えば、畏れ多くもエレナが星の姫セレイリだった可能性はある。先々代がそのお役目を終え選定を行う時期にエレナも生れ落ちていたのだが、孤児院の前に捨てられて衰弱した状態であったため、候補者とはならなかったと聞いている。


 純白に映える金糸を用い、精緻な刺繍が施された絹に包まれる星の姫セレイリ。何もわからぬ幼子は、己に祈りを捧げる大人たちをただ見下ろしている。彼女を腕に抱くのは大司教。その斜め後ろに控える帯剣した長身女性は星の騎士セレスダだろう。


 その星の騎士セレスダはあの赤子の騎士ではない。新たな騎士が叙任を受けるまで、前任者がその職務にあたるのが慣習だ。珍しいことだが、先代の星の騎士セレスダは女性だった。……本当に、そうだったかしら?


 民衆は皆、星の姫セレイリを注視していたが、エレナはなぜか星の騎士セレスダに気持ちを引かれた。あの人、見たことがあるような、ないような。


 王宮の奥、星の宮に住まう彼女らのことは、何らかの祭典でもなければ目にする機会はない。とはいえ、定期的に行われる祭祀や、それこそ新聞の挿絵などで、彼女の姿は見たことがあるはずなのだが。


 不意に星の姫セレイリが、か細い泣き声を上げ始める。人の熱気に当てられて恐ろしかったのだろうか。なかなか泣き止まぬ赤子に、初老の大司教が狼狽えるのが、目に新しい。星の姫セレイリに次いで女神に近い聖職者である彼が、あのように慌てるとは。


 見かねたのか星の騎士セレスダが腕を差し出せば、これ幸いとその腕に赤子が押し付けられる。騎士が、慣れた仕草であやし始めると、その微笑ましい様子に、民衆の間には好意的な笑いが起こった。


 だがエレナは、星の騎士セレスダから目を離せない。遠くバルコニーの上に立つ騎士の表情など、こちらからは見えるはずもないのだが、なぜか彼女がとても悲しい表情をしているのだと分かった。総じて星の騎士セレスダは、彼ら彼女らの主君を喪った直後に、代わりとなる姫を差し出され、命を賭してそれを守護するのだ。なんて残酷なのだろう。


 きっと、女神に捧げられた星の姫セレイリの最期が、目に焼き付いて離れないだろう。赤々と燃える藁や薪、呼吸を封じられて意識を失い、ただ灰となり焼け落ちる聖なる身体。


 その炎に包まれるのは、とても苦しい。思い出しただけでも身体が震えるほどの苦痛。今でも鮮明に蘇る。

 ……蘇る? なぜそんなことを知っているのだろうか。


「私、どうして……」


 両手に目を落とす。途端にそれが醜く焼け爛れて見えて、声を上げて目を背ける。隣にいた少年が、怪訝そうにこちらを一瞥する。エレナは震える身体を己の腕で抱き締めた。掴んだ二の腕の肉が、溶けていくような感覚。見下ろせば、足に靴はなく、炎の舌が爪先を焼き尽くそうとしている……。


「や……」




『おい、しっかりせい。戻って来るのだ』




 不意に、何かが弾けるような音が響く。エレナは、絹糸の束のような物で形作られた、淡く発光する長い道筋を光の速さで駆け抜けた。その刹那、何十何百もの寸劇を観たような、そんな心地になった。


 もう一度、人生を辿り直したかのような錯覚すら覚えた。物語の始まりはあの日。地下水道脇の秘密基地で。紡がれた運命が、この道へと繋がった最初の日。


 だが、それがただの走馬灯ではない証拠に、全ての寸劇は矛盾を孕み、過去も未来も混濁していた。


 不意に視界が開ける。そこは、広大な緑の平原だった。足首ほどの長さの草が微風に揺れ、優しく肌を撫でる。天を仰げば、淡い空色に白の塗料を散らしたように雲が浮かんでいる。エレナの記憶のどこにもない、静かな幸福を感じるような景色。


「やっと掴めた。ふむ、運命の糸とは、複雑なものよ」


 古風な口調は、女性のものだった。声の方を見遣り、エレナは言葉を失う。そこにいたのは、白金の艶やかな長髪を足首まで垂らし、陽光のごとく強い光を放つ、黄金の瞳を宿した女だった。


 エレナが言葉を失ったのは、その女が神々しいほどに美しいからでも、微光を発しているように見えるからでも、あろうことかその足が地についていないからでもない。エレナにはわかったのだ。彼女は、神聖なる存在。星の女神セレイアであると。


星の女神セレイア


 呟き、無意識に膝を突く。そうさせるだけの神気が、眼前の女性にはあった。女神はその端正な顔を惜しげもなく歪める。


「そう改まったことはするな。早う立て」

「しかし」

「良いと言っておる。ふむ、だから人の子は苦手なんじゃ」


 本当にあの神聖な星の女神セレイアだろうか。いや、そうでなければこの異様な光景はどうやって納得すれば良いのか。ひとまず目を擦ってみたが、眼前の女性は相変わらず光っていたし、僅かに浮遊していた。


「不思議そうな顔をしているな。何か質問は?」

「……あなたは、星の女神セレイアですか」

「先ほど自分でそう言っていたではないか」

「はい、ですが。まさかお姿を……」

「妾とて母なる大神が紡いだ存在。姿を持つのが動物だけだと思うなど、とんだ傲慢。それに、星の女神セレイアと人は呼ぶが、今は隠居の身じゃ」

「では私は、何者なのでしょうか」


 女神は眉を上げる。それから唐突に指をまさぐり、虚空で何かを手繰り寄せるような仕草をした。


「間違えたかの。いや、合ってる……これは一体」

「運命が混在したのでしょう。あなたは秩序を好むのに、なぜ糸すら上手く紡げないのですか」


 不意に清浄な印象の声が割り込む。エレナは声の出どころを探して首を巡らせるが、地平の果てまで緑が揺れるだけ。困惑した人間の様子が滑稽だったのだろうか、星の女神セレイアは鼻を鳴らした。


「人の子には大神の姿は把握できぬか」

「大神!」


 星、波、岩の三神を生み出した、世界の始祖とも言われる、偉大な全知全能の神。そんな御方の声を耳にするだなんて、これは夢だろうか。いや、夢だとする以外に、この状況を受け入れる方法はないと思えた。大神とおぼしき声が、軽やかに笑い声を立てる。


「普通は人の子に干渉することはないのですが。あなたとあなたの母には、重大な使命を課しましたから、こうして言葉を交わすことを許しましょう」

「お母さんを、ご存じなのですか」

「ええ。あの子には星の女神セレイア経由で神託を授けましたから。世界を蝕む者を制御するため、鍵となる人間をこの世に産み落とせと」

「それは、どういう……」


 思考が追い付かず訊くが、どこに向けて問えば良いのか分からない。だが、視線を向ける場所のことを案じる心配はなかった。話を遮るように、星の女神セレイアがエレナの背後を指差したからだ。


 誘導されて振り返れば、そこには灼熱の炎があった。長閑のどかな空間にぽっかりと浮かんだ窓から、火に焼かれる己の姿を見る。その紅蓮に、思い出したかのように身体が震える。


「あれは……」

「人の子とは何と野蛮なことよ。こんな悪行、妾の名の下に行われているとは」

「悪行だなんて! 星の女神あなたへとその身を捧げる儀式ですよ」

「だから不要だと言っておるのだ! わからぬ奴め。母親はもう少し物分かりがよかったぞ」


 エレナは口を閉ざす。星の女神セレイアに声を荒げてしまったことを後悔するが、そもそも女神と話すことなど不可能なはずなので、これは幻覚なのだろうと思い直す。さすがに星の女神セレイアはこれほど俗っぽい性格はしていないだろうし。


 大人しくなった人間を冷たく見下ろして、女神は言う。


「言うても栓無きことか。まあ良い。お前の運命は、あそこ。あの劫火の中に戻るのだ」


 星の女神セレイアの瞳に、燃え盛る炎が映っている。エレナは震えの止まらぬ身体を両腕で抱き締めた。


「嫌です。もう、焼かれるのは」

「だがあれがお前の帰るべき場所」

「他の場所に行きたい。お願いです」


 この段になれば、先ほどまで見ていた混沌とした夢の世界は、己の「あったかもしれない運命の一部」なのだと、本能的な部分で理解をしていた。それを神々は、糸と表現したのだ。それならば、どこか違う場所に、繋ぎ直してもらえないものだろうか。しかし神は非情である。


「できぬ。お前にはあそこで、やるべきことがある」

「戻ってもほんの少しの時間で死んでしまいます。やるべきことなんて」

「心配には及ばぬ。お前の使命はやり遂げることができる。そういう運命に紡いでいるからの。さあ、我が御子よ」


 星の女神セレイアの黄金の瞳を抱く目が、すっと猫のように細まった。


「もう一度、生の苦行の中へ」

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