6 夢か現か②

「……レナ、エレナ! もう、いつまで寝ているのかしら」


 聞き慣れたようでいて初めて聞くような、女性の声。エレナは微かに呻きつつ瞼を上げる。細く開かれた視界に映ったのは、黄金色の瞳だった。


「……お母さん」


 自然と唇から滑り出た言葉に、眼前の女性は呆れたように眉を下げた。


「この子ったらぼんやりしちゃって。今日は大切な日なのよ。このままだとお相手の方を待たせちゃうわ」

「うん……。今日って」


 何の日だっただろうか。そう口にしようとして、ふと記憶が蘇る。そうだ、今日は隣村の青年との見合いの日だったはず。母が「お相手の方」だなんて他人行儀に言う理由は、隣村が遠方過ぎて、顔を合わせるのは本日が初めてだったからだ。


「いけない! 早く準備しないと!」

「だから言ったでしょう」


 呆れて言いながらも、母は上機嫌だ。寝台から薄い掛布を奪うと、娘を追い立てながら炊事場に向かう。もう何年も使い古して変色をしている前掛けを翻し、彼女は朝食のスープを木椀によそった。


 エレナは寝台から滑り下り、麻の寝巻を脱ぎ捨てて、年に数度しか着ない晴れ着に袖を通した。


 晴れ着とは言えども、貴族や裕福な町娘が着古した普段着を古着として買い入れて、仕立て直しただけの代物。それでも纏っていた重々しいドレスよりも、動きやすくて着心地が良いと思った。


「お母さん、髪を結ってくれる」


 炊事場に声をかければ、束の間母は目を見張り、それから小さく笑った。


「……何を言っているの。こんな日だから甘えたくなってしまったのかしら。私が髪を結ってあげたのなんて、もう何年前が最後かしら」


 そうだったろうか。言われてみれば母の言葉通りの記憶が蘇る。幼い頃には、よくせがんで髪を編んでもらっていた。母親譲りの亜麻色の髪は質感までそっくりで、自分の頭髪を編んでいるようでこの子の髪は扱いやすいわと、よく母は言っていた。


 しかしそれも幼少期までのこと。貧しいこの村では、子供は早々に独り立ちすることが求められる。成人を済ませ、嫁ぎ先を探そうという年頃の娘が、母に髪を編んでもらうなど、赤面ものだ。


「ごめんなさい。どうしてこんなこと言っちゃったのかな」

「エレナ」


 首を傾げたエレナに、母は身体を寄せる。緊張や寂寞で情緒が不安定になったとでも思ったのだろう。眼前に、黄金色の特徴的なまなこ。皆が言うことには、母とエレナは瓜二つだという。


「会ってみて嫌だったら、やめればいいわ。あなたの幸せが一番大事」


 頬を優しく包む母のひび割れた指に手のひらを重ねる。女手一つで育ててくれたその手に刻まれた勲章が、隆起して固い。不意に、胸に込み上げるものがあり、それは喉元を通り、涙となって零れ落ちた。母の瞳が困惑気に揺れる。


「お母さん……」


 胸を締め付けられたような痛みの意味は、思い出せない。それでも、やっと触れることができた母を、もう二度と手放したくないと切実に願った。



 時は過ぎ、婚礼の鐘が鳴る。小さな村。教会の尖塔上で羽を休めていた鳩が、鐘の音に驚き数羽蒼天に飛び去った。慶事を寿ぐような白鳩に、夫となった彼の手を握り、横顔を見上げる。


 初めて会った日から、ほんの半年ほどだろうか。彼は痩せぎすで貧しかったが、エレナを見つめる温かな赤茶色の瞳と、それを囲む彫りの深い目元が優しく弧を描くのを見るのが、大好きだった。この日も柔らかな視線が降り注げば、胸に温かいものが流れる。二人は暫し熱く視線を交わしていたので、周囲は気を遣って少し距離を置いていたようだった。


「えーと、お二人さん。祝いの料理がそろそろできるよ」


 軽い咳払いの後に、新郎の友人である小柄な青年が声を掛ける。そこで初めて周囲の生暖かい視線に気づき、己のふるまいに赤面をする。しかしその直後、青年が告げたとおり民家から香ばしい匂いが漂えば、久方ぶりの肉の香りに一変して心が躍った。


「肉なんていつ振りだろうな。今日は祝いの菓子もあるって」


 肉はともかく、砂糖を使った菓子など平時はとても口にできない高価な嗜好品だ。心底嬉しそうに夫が言うので、エレナは笑った。


「大げさよ。それにお菓子なんて。甘いものは控えているんでしょう?」

「え、どうして?」


 目を丸くして聞き返されて、エレナは首を傾ける。


「どうしてって……最近体形がって……」


 いよいよ奇妙なものを見るような表情になった夫に、エレナは口をつぐむ。その顔を見上げていると、己の発言がいったい何を根拠に発せられたものなのか、分からなくなってしまう。彼は痩せているし、そもそもこの近辺の村々に、意図して減量をする必要がある者など、何人いることか。


 そもそも、彼の目はこんな色だっただろうか。顔立ちだって、これほど精悍ではなく、どちらかと言えば上品な印象の造形をしていなかっただろうか。そして、これほどまでに心を通わせ合っていたかどうか。


「エレナ、いったいどうしたんだ」


 強烈な違和感に襲われて、眼前に左手をかざす。白銀に煌めく指輪がそこにあったはずではなかろうか。いや、そんなはずはない。衣食住がやっとの貧しい末端の民に、そんな高価な装身具は不要である。それでも手を揉めば、確かに硬質な物がそこにあった感触が蘇る。


「エレナ?」

「ごめんなさい。私……。私は、誰だっけ」

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