5 夢か現か①
※
「ありがとうございます、修道女様」
たった今恵まれたばかりの固パンを頭上に戴き、眼前で膝を突き低頭する親子に、胸が痛む。わずかばかり、拳ほどの大きさしかないそのパンを、母子二人で分け合うのだろう。これは今日一日……もしかしたら数日分の食糧なのかもしれない。
「畏まらないでください。私は一介の神の
「女神よ、感謝いたします」
指を組んで祈れば、母子もパンを手に包むようにして指を絡ませて、目を伏せた。
戦災の地に派遣され、このような哀れな星の民をたくさん見て来た。それでも、煤けた衣を纏い、骨と皮ばかりになった細脚で焼け地を徘徊する人々の姿にはいつも胸が締め付けられる。そしてそれは、決して心を慣らしてはいけない物だった。
「修道女様!」
やや遠方から、少年が駆けてくる。
「助けてください。父さんが……瓦礫の下敷きに!」
彼女は顎を引いて、少年の誘導通りに現場へと向かった。
そこは国境に面した小さな町である。確か、とある男爵家の所領の一部であり、第一次岩波戦争の際にも甚大な被害を被ったらしい。やっとここ数年で活気を取り戻したというのに、王太子が逝去され、戦線布告をした聖サシャ王国と、真っ向対決を求めたオウレアス王国の間に再度勃発した争いにより、再び戦火に焼かれているのだった。
前回は圧勝したサシャであったが、今回は分が悪い。なぜなら、北方オウレアスは、奇怪な魔術の使い手を擁しており、大地も河川も彼らの意のままにその猛威を奮うのである。
さらに、その男の青い目が馬を掠め見れば首が落ち、人を一瞥すれば全身が発火すると聞く。それが本当だとすれば、まるで世界終末の物語のようだ。強大過ぎる力はいずれ、支配者の手に負えぬものとなり、この地を焼き尽くすかもしれない。
そんな眉唾な噂話の真偽は知れないが、サシャが苦戦しているのは紛れもない真実である。人々はこれを第二次岩波戦争と呼ぶが、そもそも第一次岩波戦争のきっかけは王太子の毒殺未遂事件だったはずなので、この二つの戦争は共に、オウレアスが
「修…じょ、様……」
覚悟していたことだが、酷い惨状である。男は倒壊した石造りの建物の下敷きになり、胸から下が巨石にすっぽり隠れている。骨が砕かれ、息を吸うことも困難だろう。辛うじて外に投げ出された片腕が鬱血し、目は真っ赤に充血している。
見るに堪えない様子だが、目を背けるのはこの男性に対して礼を失する。彼女は砂の上に膝を突き、紫藍色になった男性の手を両手で握った。
「……様」
血痰のごろつく囁きが聞こえ、耳を寄せる。
「……息子を……遺し……のは……」
「あの子はきっと大丈夫です。女神が加護をくださいます。女神は、決して星の民を見捨てません。あなたもきっと……」
きっと助かる? それは絶望的だ。仮に助かったとしても、手足は砕け、動くことはもうないだろう。それでは、女神は何をしてくださるのだったか?
「……を……」
もう少し、耳を寄せる。微かな呼気から、鉄の臭いがした。
「加護、を……」
「ええ、もちろんです」
再度彼の手を強く両手で包み、その上から己の指を組む。男の冷たい指を額に寄せ、幾度も繰り返した言葉を発する。
「あなたに、
その言葉に、男の目が見開かれる。焦点が定まらなかった視線が、自分のために祈りを捧げる修道女の瞳を捉えた。ああ、と彼は吐息を漏らす。
「あなた、は……。まさか……」
彼の驚きの理由を察し、己でも思い至れば、なぜこのようなことをしてしまったのか、驚愕する。女神の祝福を与えることは、高位の聖職者にのみ許された行為だ。一介の修道女に許されるのは、信徒と共に「加護があるように」と祈るだけ。
眼前で死にゆく男がいかに哀れだったとはいえ、この口が祝福を与える、などとは。とんだ越権行為に身体が震える。
「感謝、します……。さい……に、……おなまえ……、を。どうか……」
死に際に祝福を与えてくれた聖職者を、その目と耳に刻もうとしたのだろう。彼の最期の願い、叶えてやりたかった。それなのに、開いた口から発するべき言葉が思い浮かばない。
私の名前は、何だったかしら。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます