4 焔に焼かれる日
※
――おい、正気か。本当にやるのか。
クロの言葉に、ヴァンは答えない。誰がどんな忠告をしようと、この決意が揺らぐことはない。
ヴァンは、刑場には不釣り合いなほど豪奢な椅子の上で、蒼天の下に設置された火刑台を眺め、そこに引き出されることになるエレナを思った。
焚刑、とは言うのだが、それは彼女を王女として扱うからこその呼び方で、
本来、王族の処刑は比較的苦痛の少ない斬首刑が主流だが、昨年からの異常気象の贄とするためにも、
最期の命の灯火は、黒煙となって天に昇り、焼け落ちて灰となりし肉体は後日、天に最も近い山の頂上に安置される。そうして歴代の
――なあ、聞いてるか。
「聞いているよ」
――じゃあ今からでも遅くねえから、中止の命令を出すんだ。可哀そうだろ。どれだけ怖いと思うんだ。火あぶりだぞ。振られたからってこんなのは。
「別に振られてないし、もしそうでも、そんな理由でこんなことはしない」
――じゃあもうちょい苦しくない方法でだな。
「クロ、自信がないの?」
――んな訳あるかよ! だがな、この前イアンが俺の本体を粉々にしてから、調子がおかしいんだよ。神力が常に漏れている感じがあって……。くそ、全部終わったら
神力が漏れている。それはクロが煩いくらいに主張するので聞き及んでいたし、実際体感もしていた。自分の身体が自分だけのものではなくなる感覚。アリアの里で、クロに身体を奪われた時と遠からず近からずの感覚だ。
あの時と違うのは、当時は明確にクロとヴァンは別人格であり境界線がはっきりとしていたこと。それが今は、二つの人格が溶け合うような、危険な気配を孕んでいる。だがそれも、もはや問題にはならない。この処刑が終わるまで、均衡を保ち続けてくれさえすれば良いのだから。
聖都の闘技場に設えられた火刑台には、一本の丸太が穿たれて、その根元には油を染み込ませた藁が敷き詰められている。軽く火を放てば、一気に燃え上がるだろう。
不意に、民衆の騒めきが大きくなった。本来、剣闘士や猛獣が登場するために造られた鉄格子の向こうから、両手を後ろ手に拘束され、純白の貫頭衣を纏った姿が現れる。
闘技場の観客席に座った民衆からは一部野次が飛んだが、おそらく過激派に属する者から発せられたのだろう。その他ほとんどの民は哀れみとも安堵ともつかぬ目で、
自らの死地に向かうというのに、背筋は伸び、堂々たる歩み。それが周到に作り込まれた彼女の虚勢であることは、想像に難くない。丸太に縛り付けられた時も、遠目には怯えなど一切見えなかった。
処刑人が、こちらに目を向ける。ヴァンは首を横に振った。まだ、彼が来ていない。来なくてもいいと言ったのだが、今後のために、民に示しとやらを付ける必要があるのだという。それならば時間を守ってほしいものだが。
一陣の風が吹き、エレナの亜麻色の髪を揺らす。結われず無造作に胸元を流れるそれが、晴天に煌めくのが美しい。これから起こる事との格差に、嫌悪感すら覚えるほどだ。
エレナの黄金色の瞳が、貴賓席のヴァンを見上げた。視線が重なり、彼女の表情が微かに崩れる。
『どうして』
彼女の心の声が聞こえる気がした。何も知らないエレナからすれば、深い絶望しかないだろう。それは失望に近いのかもしれない。やがてエレナの瞳が揺れて、ヴァンの横に逸れた。そこでやっと、彼女の顔にはっきりと悲嘆が浮かんだ。
「……遅かったですね」
横目を向ければ、
民衆は貴賓席に設けられた二脚の華美な椅子のうち、片方が空席なのを不審がっていたようだが、現れた姿を目にし、オウレアスとサシャが何等かの合意の上でこの処刑を執り行うことを察しただろう。
「閣下、お嫌なら来なくても」
「ここへ向かう民衆で道が混んでいただけだ。それに、彼女のことは見届ける責任がある」
「責任……つまり義務感、ですか」
思わず言ってしまえば、ワルターは珍しく言葉に詰まったようだった。
「エレナにとっては絶望ですよ。元臣下だけでなく、夫までもが処刑を望んでいるだなんて。それでも義務、ですか」
「手厳しいな」
吐き捨てるように言ってからワルターは、眼下に佇む小男に手を上げた。男は頭部を被り物ですっぽりと覆っている。処刑人だ。冷酷な合図を受けた処刑人は頷いてから、暫定
罪状が読み上げられ、民衆の騒めきは最高潮に達しているようだ。飛び交う罵声や悲鳴じみた囁きが耳に痛い。彼らもほんの数年前までは、
それでも、民衆にとって最も大切なのは、己や家族、友人の身の安全である。哀れな女がたった一人天に還ればオウレアスの怒りが鎮まるのならと、ある者は虚ろな目で、またある者は血気に満ちた眼差しで、赤々と燃える松明を凝視している。
――ああ……。
クロが小さく呻いたのと、やや宙に浮いた状態のエレナの爪先辺り、藁の上に松明が横たえられたのは、ほとんど同時だった。
※
怖い。蘇ってしまった恐怖に溺れ、身体の芯が冷え切り、震えが止まらない。身体は凍るように冷たいのに、爪先を焼く赤は確かな熱量でエレナを燃やす。灼熱よりもむしろ、煙が苦痛を呼ぶ。気道が焼かれ、早くも呼吸困難に陥る。その頃には周囲は禍々しいほどの赤い炎と黒煙に覆われており、民衆も貴賓席も、曖昧な影のようにしか見えなくなった。
どうして。そればかりが脳内を疾走する。あの塔の上で、オウレアスに行くと言っていれば、彼はどうしたのだろうか。本当はどんな回答があったとしても、やはり今回のようにエレナを苦しめて絶命させたいと憎んでいたのだろうか。
幼い日の親愛の情も、それ以上に深いと感じた絆も、全ては何も知らぬ無邪気な二人だったからこそ成立したもので、今となってしまえば修復の余地もなく、互いの間に横たわるのは、ただの深い溝。
涙が溢れたはずなのに瞬時に蒸発して、何も残らない。炎の向こうに見えていた人影も、暗黒に包まれる。視力が失われたのか、それとも黒煙を凝視しているのか。貴賓席があった辺りを見上げても、この目は何も映さない。
ああ、このまま死ぬんだ。でも、どうして……。呟いた言葉は声にならず、エレナは意識を手放した。
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