3 違和感②
第二執務室。それが、スヴァンがこの宮に滞在する際に利用している部屋だった。
イッダは知らぬことだが、実は執務室は合計で十二あり、番号の高い部屋が利用されるのはごく稀だった。それではなぜ十二もあるのかと言えば理由は明白。三神の土地であるこの場所では、三の倍数が神聖であると言われており、神話の時代の英雄である十二聖人にあやかっているのだった。
それぞれの部屋には聖人の名がつけられ、第二執務室は聖母と呼ばれている。侵略者が慈愛の聖母を冠する執務室にいる……。何やら皮肉な印象を抱くが、何もそれを意図してこの部屋を利用している訳ではなく、ただ単に二番目の執務室であるから使用されているだけだった。
第一執務室の名は始祖王である。つまり、初代
簒奪王と呼ばれる男だ。今は亡き敵国の王の居室を占拠し自身の執務室としても誰も驚かないが、彼はそれをしなかった。何か思うところがあるのだろうか。もしかしたら単に、部屋を片付けさせる間が惜しかっただけかもしれないが。
聖母、もとい第二執務室の扉は、黒檀に白銀で装飾を施された、優美なもの。その脇には紫波騎士の近衛が二人。儀仗ではなくしっかり大剣を持ち、周囲に目を光らせていた。彼らはイッダとアリアの姿を認めると、室内に来客を告げる。突然の訪れにもかかわらず、ほどなくして扉は開かれた。
「アリアか。それとイッダ。……ちゃんと顔を見るのは久しぶりだね」
気が抜けるほど緊張感のない声音に、イッダは毒気を抜かれる。アリアといいスヴァンといい、イッダの周囲にはなぜこうも呑気な奴ばかりなのだろうか。
「君がアヴィンに頼まれた別の仕事ってやつが、まさかこんなことだったとは思わなかったよ」
アヴィンからは元々、王宮内で密かに基盤を固め、何か不穏があれば王族を人質に取るように言われていた。その命令が「会合期間内に王宮を占拠せよ」に変わったのは、つい先日のことである。最初から
オウレアスの要望を書き連ねた取り決めには、王の署名があったという。例えば遅れて効力を発する毒か何かを盛っておき、王の決断はどうあれ命を奪うつもりだったなら……
聖サシャ王宮占拠に際しては無論、少なからず血が流れた。混乱の最中スヴァンがやって来て、どうやって取り入ったのかサシャ上層部との調整により、ひとまずの平穏を取り戻した王宮であったが、このような血生臭い騒動、イッダは好まない。一連の事件の真意を問いただそうにも、アヴィンはもうこの世にいなかった。
「まあ、騙されたのは僕の怠慢だ」
案外棘のある声音で言ったスヴァンは、イッダの返事を待たず、紙面に視線を落としてペンを滑らせる。俯いて流れた前髪と、意外と長い睫毛の影になって、藍色の瞳が陰っている。
その姿を見れば、あの地下空間の書斎で机に向かっていたアヴィンの姿が脳裏に蘇った。二人は腹違いとはいえ兄弟だったはず。顔立ちや性格の差のためか、似ていると思ったことはほとんどなかったが、今となってアヴィンを彷彿とさせるほどには、血縁を感じさせる部分があった。
「アヴィンから奪ったその場所、どう?」
「別に彼は執務室の椅子は求めてなかったと思うよ」
「そういう意味じゃないって」
皮肉を返そうと意図したイッダに的外れな返答を寄越した後、少し間を置いてから、スヴァンは小さく笑ったようだった。
「お前、わざと言ったな」
今度ははっきりと笑い声を立て、スヴァンはペンを置き、顔を上げる。真っすぐにこちらを向いた瞳を見て、思わず口を閉ざした。彼の目はこれほどに暗い色合いだっただろうか。
アヴィンの目は光を吸い込み逃がさない闇を孕んだ色合いだったが、スヴァンのそれは深淵の奥底に一条の光を抱いていたはずなのだが。その瞳の暗さは、窓から差し込む光の加減ゆえか。それとも、この部屋が黒を基調としているからだろうか。
「それで、何か用事?」
「言いたいことはいっぱいあるんだけど、とりあえず……よくも俺をここまで放置したな」
反体制派時代の仲間を毒殺しようとしたことや、アヴィンのこと。
スヴァンとしても、もっと重い話題を想定していたのだろう。目を丸くして、何度か瞬きをする。それから彼は、先ほどイッダが感じた違和感など一息に吹き飛ばすような、いつも通りの軟弱さで呟いた。
「ごめん」
「お前な、何でも謝ればいいって思ってるだろ。前から思ってたけど」
「それは……ごめん」
「だからそれ!」
イッダは髪をぐしゃぐしゃに搔き乱してから、大きく息を吐いて眼前の腑抜けた男を睨みつける。相変わらず掴みどころがない。きっと彼の脳内では理論立てた思考が張り巡らされているのだろうけれど、イッダにはそれが見えないし、その手がかりもやはり雲を掴むよう。
「もういいや。とりあえず、なんだよ焚刑って。小さい子たちに毒を盛ったのもアヴィンを嵌めたのも、あの女を助けるためだったんだろ」
「誰がそう言ったの。毒のことじゃなくて、後半の方」
「え、アヴィンだけど」
「……そうか」
呟いて小さな溜息と共に背もたれに沈んだスヴァンに、イッダは語気を緩めはしない。
「とりあえず、早まるなって! 後悔するよ」
「どうして君が彼女に配慮するの。この数か月で仲良くなったとか」
違う、と言いかけたが考え直す。あの王女の顔を見ても、最初は憎悪しか抱かなかった。それでも、今や塔に幽閉されて、いつ訪れるとも知れない火あぶりの日を待っているかと思えば、不憫だと感じる程度には情が湧いたらしかった。だからと言って、
「だって、それじゃあ何のために、ゼトや他の皆を殺そうとしたんだ。それにアヴィンも……無駄死にじゃん」
スヴァンにとって大切な主君を守るための行動だったのだとすれば、彼らの苦しみも正統性を持ったのだろう。しかしこれでは、なぜ彼らが犠牲になる必要があったのかわからない。
まさかアヴィンだって、自分を死に追いやった弟が幸福になれば報われるなどということはなく、むしろ絶望の淵に落ちてくれと切望するのかもしれない。それでもイッダとしては、スヴァンの振舞いが腑に落ちなかった。
「スヴァン、久しぶりに会って思ったけど……なんか変だよ。前と違う」
いつものように気の抜けた返答が返って来ると思ったのだが、スヴァンは言葉に詰まった様子であるのが想定外だった。その頬に微かな感傷の色を見た気がして、本当のことを述べただけなのに、とても酷いことを言ってしまったような気分になる。
「なんだよその顔」
「いや、なんでもない」
つくづく彼の脳内は知れない。以前からその傾向はあったが、ここまでだっただろうか。まさか本当に頭でも打っておかしくなった? そう懸念したのはイッダだけだったのだろうか。これまで沈黙を貫いてきたアリアが徐に口を挟んだ。
「イッダ、あの毒殺未遂を起こしたのは」
「アリア」
遮るようにスヴァンの声が被さり、アリアは仕方なく口を閉ざす。その後どんな言葉が続くのか、聞く機会はなくなってしまった。普段のイッダであれば問いただしてみるのだが、不意に侍従が許可を得てからスヴァンの横にやって来て、何やら耳打ちをしたからだ。スヴァンは頷き、侍従が去ると静かな目をこちらに向けた。
「ごめん、二人とも。来客の時間なんだ。また今度、ゆっくり話そう」
「スヴァン」
「行きましょう、イッダ」
アリアに腕を取られ、後ろ髪を引かれつつも半ば引っ張られるようにして退室する。
連行されて精緻な文様の扉を出ると、そこには今一番会いたくない男が立っていた。淡い金髪に、全てを見透かすような若草色の瞳。イッダは咄嗟に逃げだしたくなったのだが、アリアの指が腕に食い込んでいたため、仕方なく一歩逸れて形ばかり頭を下げる。
イッダの茜色の頭頂を見下ろして、彼は軽く頷いただけだった。なんて呼べば良いのだったか。王太女の旦那さんだから殿下、なのだろうか、今でも。
言葉なくすれ違い、扉が静かに閉まると、イッダは詰めていた息を盛大に吐く。袖口から覗いていた男の左手は包帯で覆われており、イッダやリュアンが焚きつけた過激派による爆発により負傷したのだと知れた。
本当は混乱に乗じて絶命させるはずだったが、過激派がとどめを刺す前に、居合わせた医療従事者によって保護されるという脅威の幸運で、ワルターは生き残った。
そんな関係性だから、形勢逆転すれば今度はイッダやリュアンが焚刑になる番かもしれない。ワルターの自信に満ちた所作と緑色の知的な瞳は、仲間であれば頼もしいのだろうが、ひとまず休戦中とはいえ敵方であるイッダには空恐ろしく映った。
と、そこまで考えて、イッダは強烈な違和感を覚える。アリアに連れられて回廊を歩いていたが、思わず立ち止まって肩越しに振り返った。イッダとの距離ができたため、腕が伸びきったアリアが、怪訝そうに微かに柳眉を顰める。
「どうかしましたか」
「いや、なんか妙だよな」
アリアが小首を傾げて続きを促す。
「スヴァンとあの
「それは、大人同士ですから」
およそ成人としての感情の起伏を失っているアリアが言うことだから腑に落ちない部分もあるのだが。大人になるとはそういうものなのだろうか。
「それに、彼らが殴り合いするつもりなら、先ほどすれ違った時にイッダも拳を食らってますよ」
「良い年した大人が、急に子供を殴る訳ないじゃん」
「でしたら、そういうことでしょう」
常になく良いことを言ったアリアの顔を、イッダは妙に腹落ちした心地で眺めた。
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