第六幕 その道が繋がるように
1 塔上の幽閉と打診
その塔には、歴代幾人もの王族が幽閉されてきた。精神を病んだ王妃、造形の崩れる奇病に罹った王子や、不貞の王女。そして、暴君とされた何人もの
後世の人々には、何と呼ばれるだろうか。戦乱を巻き起こした王女、だろうか。もしかしたら、俗世に染まり天災を引き起こした
塔の最上階。冷たい石造りの一室には、簡素な寝台と小さなテーブル。それと大男が背伸びをしても指先すら触れられぬような高所に明かり取りの窓があるだけで、それすらも鉄格子によって入念に封じられている。
用を足す際にも護衛騎士……いや、看守のごとく守衛の同行を得て隣室に行く必要があり、そのほか娯楽になりそうな設備もない。手元にあるのは亡き母が遺した短い手紙と、メリッサが差し入れてくれた数冊の本だけだった。こんな状況で幽閉されて、すでに半月以上が経っている。
塔の外の様子は分からない。宮内の喧噪からも距離がある。日々やることと言えば、朝が来て夜が来て、恐ろしいほどの
最初の数日は夜の回数を数えていたのだが、ある日何度闇が訪れたか数えるのを忘れてしまってから、もう正確な日数を知ることはできなくなってしまった。
母は手記の中で、娘が老年まで生きると確信していたようなのだが、生憎それは果たされそうもない。
一部の敬虔な星の民による過激な反発に、王宮は揺れているようだ。リュアンやイッダを始めとする面々の働きかけで、エレナの処遇は寛容なものにはならないだろうと守衛が噂をしているのを、眠っている振りをして盗み聞いた。
全て諦めていた時分、彼の来訪を受けたのは、まさに青天の
幽閉とは言えども本物の牢獄のように出入り口すら鉄格子に阻まれている訳ではなく、造り自体は通常の部屋のそれと同じである。木目の見える扉を開けてやって来た彼を、ぼんやりとした頭で眺めた。よく知った顔なのに見慣れない物のように目に映り、何度か瞬きをする。
「ヴァン」
彼は扉の横に立ったまま、ソファー代わりの寝台に座ったエレナを見下ろしていた。その名を呼べば、いつも微笑みが返ってきたはずなのに、今や頬は硬く引き攣れて、深い色の瞳と相まって、その感情を読ませない。
「
ヴァンが囁くように言うので、エレナも自然と静かな所作になる。父の死は、この塔に幽閉されてから伝え聞いていた。小さく頷きかけ、ふと気づく。父は服毒自殺をしたのではなかったか。疑問が表情に表れたのだろうか、彼は感情のない顔のまま言った。
「自害と言われてはいるけど、そんなはずないんだ。例の……岩波戦争の件を世間に公表しないための取引があったのに、
どういうことだろうか。詳細な経緯を知らぬエレナに告げるには、いささか言葉足らずだったが、ヴァンとしてはそれを悠長に説明するつもりはないようだ。小さく首を振ってエレナの問いかけの視線を躱してから続ける。
「
「私の、意志」
ヴァンは頷く。エレナの意志など、この状況下にて、何の重みがあるというのか。彼は勝者であり、エレナは敗者である。それでもヴァンは訊く。その声は記憶にあるよりもずっと冷淡だった。
「取り決めの中には、君が
なぜ訊くのだろうか。己の身の自由など、今までもずっと保証されてはいなかった。次期
「北に」
「君が嫌なら、何も強要するつもりはない。ただ、王宮に招かれてくれれば良い。僕が
それは、本当の意味で妃になる必要などないということか。ただ、お飾りのように座っていろと、そういうことなのだろう。どこへ行っても、人形扱いは変わらないのかと失望を覚えたが、もはやそれに反発心を抱くほどの気力もなかった。
ぼんやりとする思考の中、無意識に手を揉む。冷たい指輪の感覚に触れ、ワルターの顔が脳裏に浮かべば、
「……行けないわ。北には」
「他に、君の命を守る方法はない、と言っても?」
棘のある声音だった。エレナは
答えもなく、ただ黙して見つめ合う。幼い日の無邪気な関係にはもう、戻れないだろう。互いの立場が、分かたれてしまった。いや、根本的な原因が血筋のせいならば、もとよりこうなる運命だったのだろう。彼とは心を通わせてはいけなかったのだ。ぽつりと言葉が漏れる。
「あなたが命じるのならきっと、私たちは従うしかないわ」
「命じるだなんて」
続く言葉はなく、ただ彼は口を閉ざした。あの再会の夜、「信じて」と言った彼は今、何を思っているのだろうか。兄を
リュアンとイッダが
「ヴァンは、私を憎んでいるの?」
虚を突かれたように目を見開いたヴァンを眺める。エレナは力ない声音ではあるものの、半ば詰問するように言う。
「私がいなければ……岩波戦争がなければ、あなたはずっと北で平穏に暮らしていたでしょう。お父上は処刑されず、お兄様を……手に掛ける必要もなかった。私は、あなたがどんな立場にあるかも知らず、残酷にも
「……僕が、君を憎んでいるように見えるの?」
「わからない。でも、今のあなたは昔とは違って見えるの」
ヴァンはやや息を吞んだようだった。それから人知れず拳をきつく握ったのだが、エレナはそれに気づかなかった。
「君は、何も変わらないね」
「私?」
「いつも、自分が何をしたいかじゃなくて、何をしなければいけないか、ばかり考えている。たとえ僕が願っても、君は生きることを検討すらしてくれない。あの時だってそうだった」
あの時。きっと、五年以上前に
「あなたのところへ行かなかったら、私は殺されるの?」
「世論がそうなってしまえば、どうにもできない」
彼の言葉が真実だとして、本気でエレナの命を案ずるのであれば、王女を差し出せと強引にでも命じればいいだけのこと。
ただでさえサシャは、岩波戦争の真実とやらが暴露されたことで立場が弱い。さらに岩の宮を席捲する過激派は、暫定とはいえ
「あなたの、何を信じていれば良い? ヴァンは何をしたいの」
ヴァンは答えない。ただ悲嘆の中に一握りの失望を込めた眼差しをこちらに注いだだけで、やがて独りよがりに何かが腹落ちしたような顔をした。
「いずれにせよ、僕は君の意志を尊重する」
答えにならぬ回答を吐き捨てて、彼は背を向ける。扉の横から一歩も間合いを詰めないまま、ヴァンは冷たい視線だけを残して扉を開いた。呼び止める気力もなく、エレナはそれを黙って見送る。
戸が閉まる乾いた音が、がらんとした室内に響く。その余韻が消えてもしばらく、エレナは扉を眺めていた。
ヴァンがサシャに害をなすだなんて、あり得ないと思っていた。メリッサやハーヴェルや、他の誰もがヴァンを疑ったとしても、自分だけは信じていようと思ったのに。この国内外の混乱を彼が容認しているという動かぬ事実が、己の楽観を打ち砕いた。
使臣としてやってきたヴァンに強い怒りの眼差しを送ったハーヴェルのように、エレナも彼を憎むべきなのだ。穏やかに言葉を交わす必要などなく、罵倒し、泣き叫んでもいいくらいだ。
それをしなかったのは、エレナが全てを受け入れ、諦めてしまっているからだろう。さらに、ヴァンにはエレナや
エレナは力なく寝台に倒れ込むようにして横たわった。高い天井を見上げ、斜めに差し込む日差しをぼんやりと眺める。あと何度、朝を迎えることができるだろうか。
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