18 雌伏の終わり

 メリッサが息を吞む音が聞こえた。思考が追い付かない。ワルターは今日、エルダス伯爵位の返還準備のため、聖都の公爵邸を訪問していた。そろそろ戻って来る頃合いだが。


「馬車が、爆破されたようです」


 陽の光の下にいるにもかかわらず、身体が冷たくなるのを感じた。震える腕をきつく抱いて抑え込む。


「……今はどこに」

「医療院です。こちらへ」


 リュアンが促すまま、騎士団本部の隣に位置する医療院へと向かう。なぜリュアンが呼びに来たのか、疑問を抱く心の余裕すらなかった。


 医療院内は騒然としていた。王立病院の系列であり、若い研修医も所属するこの機関は、病傷人を世話する場所とはいえ、常ならば静かながらも朗らかな活力に満ちているはず。それが今は、戦場のように張りつめた空気である。


 リュアンに先導され、清潔で白い階段を駆け上る。メリッサもそれについて来たが、途中で見慣れぬ若手の医師に引き留められた。あまり多人数が入室すると、医療行為の妨げになるのだそうだ。一理ある。メリッサも受け入れ、階下で待つと答えた。


 その部屋は、最も奥まった病室だった。要人の保護のためか、扉の前には黒衣の守衛が二人立ち、エレナとリュアンを認めると、敬礼を送り一歩横に逸れた。


 リュアンが扉を開く。室内から、壁に染み付いた薬品の臭いが漂ってくる。……だが、それだけだった。眼前に広がるのはただの白。一筋の光も通さぬほどぴったりと窓を覆う遮光のカーテン以外は何もない、無機質な灰白色。


「え」


 漏れた呟きを掻き消すように、背後で扉が閉まる。困惑して振り返ると、リュアンが静かにこちらを見下ろしていた。


「リュアン……」

「申し訳ございません、王太女殿下」


 常に友好的で柔和な印象だったその目は、今やとても冷酷な光を宿していて、初めてこの男に恐怖を抱いた。彼が一歩踏み出すので、反射的に後退る。こうして見上げると、さすがは精鋭の騎士。壮年とはいえ上背があり、日々の鍛錬に鍛えられたその腕に頸部を締め上げられたならば、エレナの命など儚く消えていくだろう。


「どういうこと」

「こういうこと、です」


 衣擦れの音がして周囲を見回す。扉側の壁際に数人、帯剣した黒い隊服。黒岩騎士団の面々だ。見慣れた姿に「助かった」と思ったが、どうにもおかしい。彼らも一様に、エレナを冷たく見下ろしている。


 この段になれば、気が動転しているとはいえ、おおよその状況は掴めた。つまり、エレナは嵌められたのだ。ワルターの襲撃の件、真偽は分からぬが、エレナを一人密室に誘い込むための罠だった。しかし解せない。オウレアスの民であるリュアンの裏切りはまだ分かる。だがなぜ、黒岩騎士が岩の王サレアスの娘に敵対をするのだ。


「抵抗しなければ、手荒には扱いません。どうか、ご同行を」

「どこへ連れて行くの?」

「部屋に籠っていただくだけです。あなたの処遇が決まるまで」


 エレナは眉を寄せる。処遇だなんて、まるで罪人のようではないか。エレナの心の声が聞こえたかのように、幼い少年の声が室内に響く。


「岩波戦争の戦犯。俺たち波の民の誇りを貶めた、岩の王サレアスの娘」

「イッダ?」


 騎士の間から滑り出た小柄な少年が、間合いを詰める。茜色の瞳はいつも敵意に満ちていたが、この時のイッダの目には更に強い憎悪が浮かんでいた。


「誇りを傷つけられたのは、波の民だけではない。星の民は、星の姫セレイリの本当の姿に失望する。そしてこの国は、神の威光を失う」


 言葉の意味が理解できない。エレナの困惑をよそに、イッダは続ける。


「俺は弟を傷つけられた。あいつが……星の姫セレイリを守るために俺たちを裏切ったから。仲間だって、信じていたのに」

「何の話?」

「イッダ、もういい」


 私怨を述べ始めたイッダの肩をリュアンが掴んで制止する。イッダは大人しく口を閉ざした。リュアンの瞳が、氷のように冷たい。氷柱つららのごとく視線に射すくめられ、身体が動かなかった。


「それでは殿下。参りましょうか」


 その声は、まるで知らぬ男のもののように聞こえた。



 同日、エレナは王宮の塔の一室に幽閉されることとなる。この知らせは翌朝には国中に知れ渡り、前日午後に刷られた号外に載った岩波戦争の真実と併せ、両国を混乱へといざなったのである。星の姫セレイリ毒殺未遂の真相はオウレアスの民を激怒させ、サシャの民の誇りを打ち砕いた。


 リュアンとイッダは形ばかりの亡命後、王宮内にて秘密裏にこの情報を流し、エレナが岩の王サレアスを継ぐことを良しとせぬ一部の敬虔な星の民を寝返らせたのだった。裏切りの影は腐食のように人知れず、王宮内に蔓延していた。


 後日判明したことによると、ワルターが襲撃されたというのは本当の話だった。本来の予定ではその場で始末されるはずだったのだが、爆破の巻き添えとなった哀れな住民と一緒に、聖都の王立病院に搬送されていたため、リュアンらの手にかかることなく一命をとりとめていたらしい。医療院が騒然としていたのは、都の負傷者救護のため、多数の医師が派遣される準備を行っていたからだったようだ。


 全て目論見通り進んだと思われたリュアンらの計画であったが、一つ想定外があった。すなわち、彼らの主君たる波の王オウレス……アヴィンが岩の王サレアスと同日に暗殺されていたことである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る