17 母の遺志②
「どういうこと?」
そういえばハーヴェルも、エアリアが死を覚悟していたようだったと言っていた覚えがある。メリッサは所在なげに両手を揉み、最後に拳を胸に抱え込むようにして、目を伏せる。
「臨月になった時、あの方は死期を悟ったような振舞いをされていました。当時はそのようには感じませんでしたが、今思えば」
メリッサはエレナの表情を窺う。産みの母は難産で亡くなっている。その死を語ることにより、エレナが自責の念に駆られることを、案じているようだ。エレナはメリッサの手を両手で包み、先を促す。
「産み月に入ると、エアリア様は書き物をすることが多くなりました。疎遠になった友人、私やハーヴェル卿にワーレン司教、他の親しい臣下に手紙を書いてくださいました。それを渡す時、この子が生まれたら読んで欲しいと、念押しをしていました」
「それには何が書いてあったの」
「他愛もないことです。ですがその文面に滲み出た憂いは、彼女が自分の運命を知っていたのではないかと思わせるには十分で……ハーヴェル卿も同じように感じたとおっしゃっていました」
「でも、実際はそんなことあり得ないでしょう? まさか、死期が分かるだなんて」
死が近づくと黒い影が見える、だなんて迷信もあるけれど、まさかそのような曖昧なものを本気で信じ込み、遺言じみた手紙を
「
咄嗟に言葉が出ない。何の冗談を、と思うが、眼前のメリッサは真剣な面持ちだ。
「エアリア様はある時から、女神の声が聞こえるようになったとおっしゃっていました。
「それって……」
そもそも女神の声など、いくら
動揺に抗えず、思わず手を離す。エレナの困惑を感じ取ったようだが、メリッサは続ける。
「真実は分かりません。ですがもしかしたら、あれに……」
メリッサは暫しの逡巡の末、顔を上げた。
「エレナ様、ずっと渡せなかったものがあるのですが」
「どんなもの?」
「あなたのお母様から預かった、あなたへの手紙です。大人になったら渡して欲しいと言われていたのですが」
ずっと告げずにいたことに罪悪感を抱いているのか、メリッサは少し早口だ。
「渡そうと思っていた成人の儀ではあんなことがあって、それからも王太子殿下のことやオウレアスとの戦いのこともあってなかなか機会がなく」
「いいわ、メリッサ。別に咎めてなんかない」
機会がなかったというのは確かだろう。成人の儀は結局、日蝕の儀の夜に行った祝賀会で済ませてしまったし、あの時は血まみれの
「それは今、どこにあるの」
「私が保管しています。次の機会を探していたのですが」
「そうやって後回しにしていたら、いつまで経っても受け取れないわ。気づいたらおばあさんになってるかも」
「おっしゃる通りです」
エレナは、メリッサの慎重さに笑った。しかし、「大人になったら」とは。たとえ健康であったとしても、
何気なく考えてから、ふと思い至る。母は、娘が成人まで生きると思っていたのか。まさか我が子が
「その手紙に、本当のことが書いてあると思っているのね」
確認すると、メリッサは小さく頷いた。
「それ、もらうことはできる?」
「……エレナ様が母になるときに、と思っていたのですが」
「後回しにしないって言ったばかりでしょう」
「そうですね」
エアリアが何を意図していたのか今は知る由もないが、これからエレナの身に何が起こるかなど、この宮の誰にもわからないのだ。オウレアスの偽王に差し出されるのか、それとも岩の宮で隠れて血を繋ぐのか、もしかしたら
「戻ったら、お渡ししましょう」
「ええ。今日はもうお客様はいないでしょう。暑くなってきたし、そろそろ帰りましょうか」
秘密を吐露し、心につっかえた物が取れたのだろう、メリッサはやや頬を緩めた。他の侍女に即席の茶会場の撤去を頼み、メリッサとエレナは並んで岩の宮へと進む。薔薇の植え込みの間、先ほど親子が通り抜けて行ったのと同じ道だ。
他愛もない話をしながら、盛りを過ぎた薔薇の甘い芳香を嗅ぐ。季節は初夏と呼ぶにはいささか気温の高い時期となっていた。
国土の最北端に永久凍土を抱く山脈を持つオウレアスは、もう少し涼しいだろうか。オウレアスにいるはずのヴァンは、何を思い何をしているのだろう。藍色の目の彼のことは、別人であると思い接することに決めた。そうしなければ、胸の疼きが消えてくれないからだ。
楽しそうなメリッサに相槌を打ちながらも、ぼんやりと物思いに耽っていたエレナを現実に呼び戻したのは、鋭い声だった。
「王太女殿下!」
前方の植え込みの角から、糊のきいたシャツを纏った壮年男性が飛び出してくる。驚きに束の間怯んだが、その顔に浮かぶ焦燥を察し、エレナは表情を引き締める。
「リュアン卿。いかがなさいました」
どれほどの距離を走って来たのだろうか、額に汗を浮かべ、荒く息を吐いた後、彼は言ったのだった。
「殿下が……、ワルター殿下が襲撃に!」
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