16 母の遺志①
※
「それでは殿下、ごきげんよう」
「ええ、お義姉様。くれぐれもお気をつけて」
庭園に設えられた即席の茶会場。白い布の張られた円卓の上では、ポットから薄っすらと湯気が上がり、爽やかな芳香が立ち上がる。その香りは庭園に咲き誇る花々の香りと合わさり、よりいっそう人々を楽しませる。
「ええ、ありがとう。ですが気にしすぎは良くありませんよ。会合が始まり、平穏に一歩ずつ近づいているのですから。『己を滅し国を保て』。我が家の家訓ですけれど、それがあるにしたってお父様も
柔らかい微笑みに弧を描く目元が、ワルターとそっくりだ。幼子の手を引きながら言ったのは、レイザ公爵の長女で今は東部を所領に持つ伯爵家に嫁いでいる、ワルターの姉である。
曖昧に微笑んだエレナに、彼女は膝を折って優雅な一礼をする。彼女の末娘が、隣で母に倣って大人びた礼をするのが微笑ましい。
「それではこれで」
「ごきげんよう、でんか」
舌足らずな幼子の挨拶に手を振れば、屈託のない笑顔が返ってきて、つられてこちらの心持ちまで明るくなるようだ。おそらく、それが彼女らの目論見である。
ここ数日、なんとか平静を装いながらも塞ぎ込みがちなエレナを気遣ってか、来客が多い。それは旧知の令嬢であったり、遠くに赴任した、幼少期に世話になった神官であったりした。教育係であったワーレン司教は何やら多忙なようで、さすがに王宮まで来ることは叶わなかったが、自筆の手紙をくれたのはとても嬉しかった。
これら全てを手配しているのがメリッサだろうことは、誰に言われずとも察する。あまり周囲に気を遣わせたくないものだが、どうも顔に出てしまうらしい。良かれと思い手配してくれたその気遣いを邪険にもできないが、近頃メリッサが過剰に心配をしているようで、どうにも居心地が悪かった。やんわりと心の健全さを主張してみても、取り合ってもらえない。
「幼い頃のエレナ様を思い出しますね」
メリッサが、親子の後ろ姿を眺めつつ目を細めた。エレナは視線を追って、首を傾ける。
「そう? 似ているかな」
レイザ公爵の孫であれば王家の血を引いているはずで、エレナにとっては遠くとも血縁者に当たるのだが、どうやらそういう話ではなかったようだ。
「あなたも幼い頃は大人の真似をしたがる子でしたよ。こんなにおませで、これからどうなってしまうのかと思ったものです」
「それは良いこと?」
「私にとっては、とても微笑ましい思い出です」
含みのある言葉にエレナは複雑な思いを抱いたが、育ての母が嬉しそうなのであれば、口は挟むまい。
義姉とその娘は手を取り合い、庭園の花々を見上げながら、滞在している岩の宮に戻って行く。その姿に、メリッサと己の思い出を重ねれば、胸に温かいものが溢れるようだった。
実の母は知らない。幼い頃は、産みの母のぬくもりを求めた時期もあったが、今のエレナにとって母と呼べるのはメリッサだけで、そこには何の不満もない。それでもメリッサは時折遠い目をして、今は亡き友人に思いを馳せているようだ。いつしかメリッサの目を見れば、エレナの姿に旧友を重ね見る母に、気づけるようになった。
母は父を愛してはいなかったと聞く。それについてはエアリアに聞かねば本当のところは分からないのだが、そもそもなぜそれほどまでに子供を欲しがったのだろうか。
「お母さんは、どうして私を産んだのかしら」
「急にどうし……あ……」
思わず漏れた呟きに、メリッサは弾かれたように顔をこちらに向けた。真ん丸に見開かれた目を暫し見つめ、いらぬ誤解を招いたと気づき首を振る。
「あ、違うの。そうじゃなくて」
王宮の誰もが王太女の懐妊を切望していることは知っていたが、あいにくそのような兆候はなく、変に敏感になっているメリッサや侍女に、やや辟易する。
「そうじゃなくて、ほら。あの二人を見ていたら、お母さんも自分の子供とここを歩きたかったのかなと思って」
メリッサはエレナの視線を追い、小さくなった親子の背中を見てから、何度か頷いた。
「素敵な親子ですね」
「ええ。でもメリッサと私も負けてないわ」
「まあ」
メリッサは嬉しそうに微笑むが、そこに微かな憐憫を見て、エレナは口を閉ざした。不意に
「……どうしたの」
問えば憂いは影を潜め、いつもの慈愛に満ちた笑みが返って来るが、エレナは僅かな動揺の欠片を手放さなかった。問う視線を逸らさずにいれば、メリッサは困ったように眉を下げてから、根負けしたように言った。
「エアリア様は、それが叶わぬことだと、ご存じだったのだと思います」
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