15 最期の夜、そして謀略の香り

 低く呼びかければ、旧友は言葉なく部屋に滑り込み、凪の海のように静かな藍色の瞳で、床に広がる赤を見下ろしている。


 未だ信じられぬことだが、話してみればこの男は紛れもなく、幼い頃より共に鍛錬をした、あの星の騎士セレスダだった。なぜ姿を消したのか、その瞳はどうしたのか。彼から説明を受けはしたがやはり、違和感は拭えない。


「……ごめん、イアン」

「なぜ、謝る」


 ヴァンはただ首を振る。おそらく、王殺しをさせてしまったことを詫びているのだろうが、イアンとしても主君のかたきを取る機会を切望していたのだから、謝罪には及ばない。足元に転がる細剣と、その先の赤を見下ろして、そう答えようとしたのだが。


「え……。わかったから静かにしてくれないか」

「どうした」


 突然友人の口から発せられた何の脈絡もない言葉に怪訝な目を向ければ、ヴァンは躊躇いもなく血だまりに踏み込むところだった。血を分けた兄の鮮血に、長靴の先が朱に染まるのも厭わず、彼は部屋の隅に歩き膝を突いた。赤の足跡が月光に照らされて生々しい。


「そう、わかった」

「ヴァン?」

「イアン、何か袋か筒みたいな物持ってる」


 顔を上げて唐突に問うたヴァンを不審に思いつつも懐を探り皮巾着を投げれば、彼は片手で受け取った。


「ありがとう」


 言って彼は、散らばった黒い破片を大事そうに巾着に入れる。砕け散って粉状になったそれでさえも、高価な宝玉の一部か何かのように、一粒すら見落とさぬような所作で手の側面を使い丁寧に寄せ集めた。巾着の紐を縛ってからやっと、ヴァンは言った。


「クロの本体なんだ、これ。拾い集めてくれって言われたから」

「クロ……その、お前の中にいるという」


 頷くヴァンに、イアンとしては複雑な思いを抱いてしまう。幼少の頃よりヴァンは、己の中に猛獣が住んでいると言っていた。


 それは精神的な問題であり、身体に猛獣が住むなどという奇怪なことは起こるはずがない。きっとその妄想は、彼が自分の残酷な一面を認めることを拒むばかりに、自己防衛のために作り上げた空想の怪物なのだと思っていた。いや、今でもそう思わなくもない。


 しかし、彼の波の加護と幼少時の記憶を隠したのがその猛獣……もとい、遥か北方の剣の神とやらで、青い目の魔人としての力を操るのがその神だと言われれば、途端に辻褄が合う話にも聞こえる。それでも、生来融通の利かないたちであるイアンには、どうにも受け入れ難い話だ。


 だか、イアンがどう感じようとも、今はそのような呑気な考察をしている場合ではない。一つ咳払いをして、イアンは促す。


「回収は終わったか。騒ぎになる前に、次の行動に移ろう。前王を捕えるために。……幽閉するだけで良いんだな」

「そうだね。伯父には悪いけれど、傀儡になってもらう。波の王オウレスの後継は甥だと公言させれば、しばらくは僕が権力を行使できる。全部終わったら元通り、伯父に北方を治めてもらうよ」


 無論、長期統治を目論むのであればそう単純にはいかないだろう。だが驚くことに、ヴァンはサシャとオウレアスの紛争が終結すれば、権力をいとも簡単に放棄するつもりらしいのだ。


「正式には継がないのか」

「僕に王は務まらないよ。それに」


 ヴァンは少し口ごもってから、ひと呼吸分目を閉じて、それから腰を上げた。


「クロも、できれば王なんてごめんだってさ」


 確かに、一国の王は誰にでも務まるものではなく、生れ落ちた瞬間に選ばれた者が、幼少の頃より然るべき教育を受けて初めて務まるもの。神官であった前王も、波の加護を持つ弟が生まれなければ、神職には就かなかったはずで、王子としてある程度の帝王学は修めていたのである。


「これから先は、それほど大変じゃないはずだ。イアンと僕が組めば、見張り番なんて敵じゃないし、何よりアヴィンがいなければ、クロの力も邪魔されずに使える」


 ヴァンは変わらぬ静かな目で、兄の首を眺めている。あまりに残酷な光景に、イアンですら進んで目を向けたいものではない。それなのに彼はなぜ、実の兄の無残な姿を表情一つ変えずに見つめることができるのだろうか。


 イアンにとってヴァンは友人であったが、その心はいつも掴みどころがなく、ヴァンの思考の全てを察することは到底不可能だ。それでも彼は、兄の死を複雑な思いながらも悼んでいるのかも知れない。平静を崩さない声音で、ヴァンは訊いた。


「彼は、最期に何て?」

「不穏なことを言っていた。『次の一手はもう動き出している』と。後は、謝罪のような」

「謝罪?」


 波の王オウレスの最期を思い起こし、手に残る斬首の感覚が蘇り拳を握る。王は、女人の名を口にしていた。誰だろうか。母は死に、妻はなかったはずだから、血縁か、愛人か。


「『すまない、アリア』と。そう言ったように思う」


 ヴァンの表情が動いた。眉が微かに下がり、唇を噛み締めたようだった。そこでやっと、ヴァンの感情を打ち消した表情は、堪えに堪えて作り上げられたものだったのだと気づいた。今度はたっぷり三秒、彼は目を伏せた。次に顔を上げた時には、その頬から感傷は消え失せていた。


「そうか」


 ヴァンはそれ以上何も言わず、足元に転がった質素な細剣を拾い上げた。何か思うところがあるのか、鈍色で特徴のないそれを暫し見つめてから、外套の内側に仕舞い込む。その動機については何も告げず、ただヴァンは、冷酷な目で言った。


「行こう。あと少しだけ、協力してほしい」


 迷いのない歩調で部屋を出るヴァンに、イアンは続く。


 今宵、聖サシャ王国とオウレアス王国には大きな動乱が訪れる。


 ヴァンが告げたように、前王を捕えることは、拍子抜けするほど簡単だった。まさかこれまで従順であった王弟が、伯父に危害を加えるなどとは思いもよらなかったようで、剣の神の力とやらを使う必要もなく、呆気なく守衛の紫波騎士を昏倒させて彼の寝所を襲えば、滑稽さすら感じるほどの容易さで目的は達せられた。


 これで前王と取引をし、サシャに不利益な取り決めばかりの和平条約への署名を改めさせることができる。そう安堵した矢先のこと。イアンとヴァンの耳に、衝撃の報せが届く。


 岩の王サレアスが、服毒自殺をした。その手元には、昼の会合でアヴィンが叩きつけた文書。そこには豪胆な字で、署名がなされている……。


 人々はその死を、岩波戦争の真実に対する贖罪であると噂した。だが、ヴァンはそれを認めなかった。会合では、「署名をすれば岩波戦争の真実は明かさない」と取引を持ち掛けられていたのだ。だとすれば、自ら命を絶つにしても署名をする必要はなく、署名をするのであれば死を選ぶ必要はない。


 あの王が罪の意識からこのような行動に至るとも、到底思えなかった。だが、部屋は密室であり、筆跡は王のものである。事の裏側にはアヴィンらの謀略があるのだろうが、それを検証する時間的余裕は残されていなかった。


 報せはその日の日中には号外として一面を飾り、両国中に広がることになる。


 岩波戦争の過ち。その暴露をただの虚言ではなく、揺るぎない真実として補強せしめたのは言うまでもない。岩の王サレアスの自死であった。


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