14 最期の夜②
にじり寄る剣の鈍い煌めきを眺め、アヴィンは這うように退く。壁が近い。これ以上の逃げ場はないようだった。
「……スヴァンから聞かなかったか」
アヴィンは視線を逸らさず手探りで、何か武器になる鈍器がないか探しながら続ける。
「そなたらの王は、策を誤った。己の間違いを隠蔽するために、罪なき民を戦禍に巻き込み、補償されて然るべきオウレアスを蔑み支配した。我々がなぜサシャに反旗を翻すか、わからぬとは言わせない」
イアンは強く歯を食いしばったようで、下顎が隆起する。それでも、突きつける切先が狙う先は頸部の急所を外さない。
「国同士の憎しみの正当性は、この際関係ない。俺がお前を斬らねば気が済まない。それだけだ」
「割り切った顔はしていないぞ」
イアンは答えず、剣を薙ぐ。その一撃転がるようにして避けた拍子に、胸元から、皮紐に吊るされた漆黒の石が飛び出す。あろうことか、それは硬質な音を立てて両断され、黒の破片を撒き散らしながら床に散らばる。
神の
装飾も何もない要塞の簡素な一室だ。視線を巡らせても、先ほど弾かれた剣以外、武器にも防具にもなりそうな物はなかった。捕虜になったのは、黒岩騎士団でも精鋭の者だと聞いていた。この男と密室で二人きりになった時から、アヴィンの命運は決していただろう。
扉へ走るか。いや、あの男は隙なく動線上を塞いでいる。声を上げるか。それも無意味だろう。すでに物音が漏れているはず。衛兵はすでに
潮時だ。利用しようとした弟に、してやられたのだ。詰めの甘さは自業自得。最期ならば、無様に終わりはしない。
そもそも、己が波の玉座など、望んではいけなかったのかもしれない。偽物の波の加護を宿したアヴィン。王家を繋ぐため、伯父と共謀して反旗を翻すことが、使命であると信じていた。だがそれは、所詮人の子の醜い謀略であり、
首筋に突きつけられた
アヴィンは両手を上げ、抵抗の意思がないことを示してから、腰を上げた。
「わかった。私の負けだ」
そのような言葉、イアンには到底信用できないようで、硬い表情は変わらない。
「怖い顔をするな。私が死んでも、流れは止まらない。次の一手はもう動き出している。それほどに欲しいのなら、この命、そなたにくれてやろう」
「差し出されずとも、奪う」
「可愛げのない男だ」
アヴィンは、首元に張り付く剣の冷たさに、身を預ける。死を意識すれば、途端に記憶の奔流が怒涛の如く流れ行く。
幼き日に注がれた、愛情に満ちた微笑みを浮かべる父の視線。それは念願の波の加護を持つ実子を得たことへの安堵であったのだろうか。母はいつも息子への接し方に戸惑うようで、徐々に神経を衰弱させていく様は、見るに堪えないものだった。あの父母の元へ、今から逝くのか。
不意に、弟の顔が浮かぶ。その神々しいばかりに煌めく瞳が脳裏を過れば、紛い物の目を埋め込まれた息子との再会を両親が喜ぶだろうかという問いの答えは、明白だと思われた。それがたとえ、この世ならざる場所での邂逅だったとしても。
アヴィンは、両親が熱望したものを彼らに与えることができなかった。両親も王宮の廷臣も、波の加護に敬意を示してきた。それでは、それを持たないアヴィンという、ありのままの人間を愛した人は、誰もいなかったのだろうか。なんとも虚しい人生だった。紛い物の王の証を振りかざし、憎悪を招き、誰にも必要とされず……。
『また、あの夢ですか』
イアンの剣が斜め上方に振り上げられた時、耳朶に囁く声が妙に明瞭に響いた気がした。いつも悪夢にうなされることを、感情を失った彼女はそれでも案じてくれていた。「また」あの夢かと、何度囁かれたことか。
ともに過ごした夜の数は数えようもないが、彼女が隣で眠ってくれるとき、決まって悪夢は短い。彼女がその優しい手で、温かな世界に呼び戻してくれたから。
それなのに、彼女の意に添わぬことを命じ、それを成しえなかった時にひどく罵倒し、結果的に疎遠となり、それっきり。彼女には、何も遺せなかった。愛しいと伝え、この関係に名前を付けることすら叶わず、許しを請う時間すら、もう残されていない。
「……すまない、アリア」
最期の言葉の意味は、イアンには知る由もない。イアンは無慈悲にも、彼の悲願を達するべく、白刃を振り下ろす。
鮮血が舞い、在位僅か数か月の
「ヴァン、終わったぞ」
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