13 最期の夜①

 弟の反応は想定通りだった。アヴィンには、己がスヴァンをどう思っているのか未だ判然としない。


 肉親の情がないと言えば嘘になる。透き通る藍色の瞳のみならず、スヴァンの容姿は父によく似ていた。弟が南に連れて行かれたと聞いた時には、重要な手駒を失ったことを口惜しく思いこそしたが、肉親としてだけでなく、およそ人間に対する情など、ほんの一握りも感じてはいなかった。それでも二年前。あの薄暗い地下空間で彼と出会った時、心が揺れたのは確かである。


 アヴィンが欲しがったものを、スヴァンは生来与えられていた。父王が熱望した、本物の波の加護。建国の祖である波の御子オウレンの末裔が神の加護を持つことは、オウレア紛争で岩の王サレアスから独立をしたこの若い国を、正当化させる唯一の印だった。


 もちろん、幼少のアヴィンも自分がそれを持っていることを誇らしく思っていた。自分がこの国にとって重要で、これからこの地を守り慈しみ統治する重責があり、それは波の神オウレアの意思なのだと当然のように思っていた。


 王太子時代、幼いアヴィンの瞳を見て、人々は陰で囁き合っていた。王子の瞳は美しいが、同時に恐ろしいと。父王や弟の瞳は深淵を流れる純水のごとく輝くのに、己のそれは、淵に滞り濁った古水のよう。その理由を知ったのはあの陥落の日、母が狂った様子で吐き捨てたからだ。


「これは、波の加護など受けてはおらぬ」。その言葉が、アヴィンを蝕む。


 自分の代わりに、父を継ぐ資格のある加護を受けた兄弟がいるのだと知った時、猛烈な憎悪に苛まれ、弟と対面を果たしたら歯止めがきかず殺してしまうのではないかとさえ思った。


 しかし、幸か不幸かスヴァンは南に保護されて、以降十年、アヴィンの手が届かない王宮に行ってしまった。その間、怒りを抑える術を知り、弟を憎しみから殺めるのではなく、その中に住まう遥か北方の神ごと利用する方がより賢明だと、理解できるようになったのだ。


 それでも、彼を憎む心は変わらないだろうと思っていたのに。当の弟は何とも掴みどころがない性格で、ほとんど何を考えているのか分からないほどだったが、一つ確かなのは、彼はオウレアスの王位自体には興味がなく、その意味ではアヴィンの脅威にはならないということ。


 弟が求めたのは、彼を育てた敵国の最低限の安寧と、守護の誓いを立てた星の姫セレイリの命の補償だった。私欲がなく、どこかぼんやりとした印象のある男だが、彼との交流はアヴィンにとっても、やぶさかでないものになっていった。


 だから、弟に秘密を抱え、騙すことは本意ではなかったのだ。それでも大望のため、彼を信じ切ることもできなければ、まさか星の姫セレイリを貶めるような計画を予め伝えることはできなかった。


 アヴィンが剣の神の契約者である限り、スヴァンが反抗できないことは知っていたが、それでも無駄な軋轢は避けるのが賢い。


 拠点の毒殺未遂の嫌疑をスヴァンに掛けたのも、意図してだった。いかにスヴァンに私欲がないと言っても、彼は本物の波の加護を持つ身である。周囲が弟を担ぎ出さぬよう、求心力は低下させておかねばならない。


 そしてあの地下空間は、己の汚い過去を示す場所であり、利用し尽くした今となっては、もはや枷にしかならない。水脈に毒を流せと命じたのは、アヴィンである。あの件については下手人アリアが情けを見せたため誰も死ななかったが、結局あれがきっかけでアリアとは疎遠になった。


 久方振りの再会だというのに彼女はつれなく、会合後に一度荷物を置きに来たきり、夜が更けても姿を見せない。どこかでとうに眠りについているのかもしれない。一人眠れぬ夜を過ごす中、深夜を回った頃に扉を叩く音が聞こえても、機嫌を直したアリアがやって来たのだとは思わなかった。


「誰だ」

「僕だ」

「スヴァンか」


 用心深く誰何すいかすれば、板の向こうでくぐもった声。扉を挟んでの会話であるためか、それとも兄への不信感のためか、スヴァンの声はいつもよりも低く聞こえた。


 アヴィンは扉を開く。飾り気のない無骨な廊下に立ちすくんだスヴァンは、濃紺の外套にすっぽりと身を包んでいたので、思わず目を疑った。


「その恰好は……どこかへ行くのか」


 スヴァンは曖昧に首を振った。この二年で知ったが、彼は激しい感情を抱くと、それを必死で嚥下するように言葉少なくなるのだ。


 日中の件、未だ釈然としていないのだろう。無理もない。譲位の辺りから彼を交渉事から遠ざけていたのは気づかれていただろうし、その頃から二人の間にはよそよそしい風が通るようになっていた。更にこれから岩の王サレアスに起こるだろう悲劇を知れば、細い糸で辛うじて繋がった弟との絆は、いとも呆気なく断ち切れてしまうだろう。


 だが弟は、先日の国境での戦いの最中、兄をサシャに差し出すことはしなかった。ほんの少し。僅かなりとも、この絆を信じてみたいとも思った。


「初夏とはいえ、夜は冷える。入るか」


 感傷を抑え、意識して普段通りの声音で招き入れれば、彼は躊躇いなく滑るような足取りで入室した。扉が、スヴァンの背後で微かに音を立てて閉じる。


「掛けると良い」


 椅子を勧めれば、スヴァンは素直に腰掛ける。茶でも淹れてやりたいが、生憎そのような気の利いた備品はこの部屋にはなかった。アヴィンは対面に座り、弟の様子を窺った。


「このような夜更けに、いったいどうしたのだ」


 答えはない。いつにも増して口数が少ない。相当怒っているようだ。無理もないだろう。アヴィンはスヴァンを裏切っていたようなものなのだから。とはいえ、まともに話す気がないのであれば、深夜に部屋までやって来る必要はないではないか。


「外套、脱いだらどうだ。それほどこの部屋は寒くないだろう」

「ああ……」


 風もないのに、ゆらりと燭台の火が揺れた。呻くように答えたスヴァンを、いよいよ怪訝に思い、アヴィンは身を乗り出す。フードの下に隠された表情を暴こうと、手を伸ばす。そして青い瞳が覗く……。


「!」


 不意に、外套の下で剣を抜く硬質な音が反響し、次の瞬間、咄嗟に身を引いた己の頸部があった場所に、横薙ぎの一閃を見る。


 なぜ彼がこのようなことを。剣の神を宿したスヴァンは、アヴィンに手出しできないはず。しかしその理由は直ぐに判明する。


 剣を振るうのに邪魔にならぬようにか、眼前の男は外套を脱ぎ捨てた。覗いたのはやはり青い目。しかし、弟の深い藍色ではなくもう少し明るい、青玉のごとく瞳だ。その髪は、燭台の光を浴びて朱色に照り返す。火の側でなければもっと色素の薄い、銀色の頭髪だろうか。


「そなたは」


 年の頃は自分とそう変わらないかもしれない。知らない男だった。いや、違う。一度見たことがある。確か、スヴァンが捕らえたサシャの捕虜……。


「まさか、スヴァンの……」


 差し金か。続く呟きを掻き消すように、剣が斬り込む。実直な、正面から雪崩れ込むような剣筋だ。アヴィンはその攻撃も辛うじて躱し、転びかけながら敵と距離を置く。


 剣の神との契約があるため、スヴァンが自分を害すことはないと、慢心していた。まさか、他人の手を汚してまで兄を斬ろうとするとは、思ってもみなかった。


 とどまることを知らぬ斬撃。アヴィンは部屋の隅に立てかけられた剣を取ろうと、敵に身体を向けたまま後退あとずさる。アリアの細剣だ。


 質素な鈍色の鞘に指先が届く。掴んで眼前で抜刀しようとしたが、武術の覚えはさほどない。元より、精鋭と素人では勝負にならない。


 虚しくも、上から振り下ろされた重撃に、呆気なく剣を取り落としてしまった。その衝撃で腕が痺れ、剣の重さにつられて、無様にも尻もちをついてしまう。アリアの細剣は、イアンの靴先に蹴り飛ばされ、扉の方へ滑って行った。


「そなた、何者だ……」


 言葉なく、息も切らさずに間合いを詰めた銀髪の男は、切先をアヴィンの喉元に突きつけると、やっと口を開いた。近くで見れば、スヴァンには似ていない。なぜ別人だと考えなかったのだろうか。


 いや、彼は一言も、己がスヴァンであるとは名乗らなかった。それでも、歩の進め方や頷く角度といった身のこなしには、弟を思わせる部分があった。彼らは旧知の仲なのだろうか。眼前の端正な顔が、憎しみに歪む。


「イアン・マクレガー。今は亡き王太子の護衛騎士であった」

「王太子」


 ああそうか。彼はアヴィンを、反体制派を憎悪しているのだろう。もちろん、サシャ王宮に関連する者の誰もから憎まれている自信があるし、主を死に追いやられたとなれば、危険を冒しても単身敵の根城に乗り込もうとする忠臣の一人や二人、いたとしても驚くに値しない。


 だが彼らが波の王オウレスに向ける憎しみは、かつてオウレアスの民が岩の王サレアスに向けた怒りと違いないものなのだと、眼前の騎士は理解しているだろうか。


「偽王、主君の敵を取らせてもらう」


 イアンの声が、無機質な室内に冷徹に響いた。

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