9 代償
※
本当は、もっと聞きたいことがあったのだ。それでも開口一番に「信じて」と言われてしまえば、ヴァンを疑い問い詰めるような真似はできなかった。知りたいことを問いかけすらしなかったことを口惜しく感じる気持ちはあるものの、この選択に対する後悔はなかった。
帰りの馬車の中、行きと同様にハーヴェルとエレナの間には交わす言葉がない。元々この騎士は口数が多い方ではないのだが、彼の険しい表情を掠め見なくとも、此度の訪問に怒りすら覚えているだろうことは想像に難くない。
ハーヴェルにとっても、ヴァンは大事な弟子であったはずで、それが母国に仇を成したとなれば、強烈な後悔と罪悪感に苛まれるのも無理はないだろう。更にそんな心持ちの中、あろうことか王太女が敵の誘いに応じ、それに付き従わなくてはならないだなんて。しかもこのような夜更けに。
ハーヴェルに負い目を感じるものの、どのように謝罪しどのように感謝を伝えれば良いのか分からない。言葉ない二人を乗せ、馬車は王宮に戻る。いつ降りたのかも定かではない上の空で、気づけば寝室に辿り着いていた。
「それでは殿下。私はこれで」
扉を開いてくれてから、やっと口を動かし、硬い表情のまま一礼して去ろうとするハーヴェルを慌てて呼び止める。
「ハーヴェル」
彼は素直に脚を止めて、律儀に身体ごとこちらに向き直る。心労からか一気に老け込んだような姿に、自然と言葉が溢れた。
「巻き込んでごめんなさい。ありがとう」
彼は表情を変えず、再度胸に拳を当てて頭を下げる。心なしか、先ほどよりも深い一礼だったように感じた。
騎士の背中が角を曲がるのを見送ってから扉を閉めて、指先を板に沿わせたまま暫し瞼を閉じる。板戸の硬質でひんやりとした感触に心を落ち着かせ、早々に休もうと振り向いて。目に入った姿に、せっかく平常に戻ったと思った鼓動が束の間止まったかと錯覚した。
「お帰り」
窓枠に寄りかかり、僅かな燭台の灯りを頼りに手元の本に目を落としたまま言ったのは、ワルターだった。咄嗟に言葉が出ないエレナを怪訝に思ったのか、彼は顔を上げる。エレナの行動を、どこまで知っているのだろうか。疲労が滲んではいるものの、平時と変わらぬその表情に、エレナは困惑する。
「ただいま戻りました……」
「もう遅い。早く眠るといい」
持っているだけで手首が痛くなりそうな分厚さの本を片手で閉じ、彼はこちらに向かってくる。怒られる、と思ったのだが、そのような様子もない。エレナの横を素通りし、寝室から出ようとしているらしい。
「どこへ行くんですか」
「今日は執務室で休むよ」
その行動の理由が多忙のためばかりでないことは、取り繕っているようではあるのだが、こちらに注がれる視線が、ほんの少しだけ冷ややかに感じられたことからも察せられる。
深夜の外出理由を詰問されないのは、全てを知っているからに違いない。批難の言葉を浴びせられて然るべきなのに、それをしない彼との間に、何か深い溝ができたような気がした。ほんの少し前に、軽卒なことはするなと言われたばかりなのに、エレナはいとも簡単にそれを反故にしてしまったのだ。
「待って」
咄嗟に腕を掴んで引き止める。彼は少し眉を上げた。連日の睡眠不足と心労から、目元に刻まれた皺と暗い影が間近になる。ワルターがこれほどまでに尽力している中、それを顧みずに敵と心を通わせていた己の非情さに、今更ながら胸が抉れるように痛むが、時はすでに遅い。
「執務室じゃあ休めないわ。一人がいいのなら、私が他の場所に」
「そうじゃない」
「それならどうして」
ワルターはただ首を横に振った。柔らかな仕草の中に込められた強い拒絶に、失ったものの大きさを知った。二人の間に愛はなかったが、それでも何らかの絆はあったはずなのに。それが砕けて消えてしまった感触だけが鮮明だった。だからと言って、王太女と次期王配という対外的な関係が変わるわけではない。
見つめ合ったまま膠着した状況に小さく溜息を吐き、ワルターは口を開く。
「あなたがこうすることは分かっていた。ハーヴェルを遣わせたのは僕だ」
「ごめんなさい。あなたの気持ちも考えずに……」
彼は答えず、己の腕に絡みついた指を解く。それからエレナの額に軽く口づけ、言葉なく扉を開く。今度はその背を呼び止めることはできなかった。
※
それからしばらく共に夜を過ごすことはないと思っていたのだが、予想に反し、翌日には彼は帰って来た。それが決して彼の本意ではないことは、感情を押し殺した若草色の目を見れば言葉にされずともわかる。ワルターがエレナの側に留まるのは、議会をはじめ王宮の面々が、王太女夫妻の不仲を認めなかった結果だろう。
国としての格式は、どう足掻いてもサシャには太刀打ちできない。それでも、この国で
築きかけた情を幾度も踏みつけにして粉々に砕いたのは、エレナ自身だった。温かな情などとは無縁の淡泊な関係を、今さら嘆く資格はないし、何の不満もなかったのに。
身体を寄せ合い互いの体温を感じながら、何かに思い悩むような様子を見せたのは、むしろワルターの方だった。ある晩、彼は小さく「すまない」と呟いた。これまでも夫婦としての夜は幾度もあったけれど、彼が謝罪を口にしたのはこの日が初めてだった。エレナには、彼がどうして謝るのかわからなかった。
あの日。アルフェンホテルに行った日から、エレナを映すワルターの瞳が揺れるようになったことには気づいていた。最初はエレナを見限り嫌悪しているのかと思ったが、それにしては彼の目は苦しげな光を宿していた。エレナには、その意味を理解することが、とうとうできなかった。
これは互いの責務であり、議会が求めたことである。ワルターには何一つ謝罪すべき点などないはずなのだ。エレナは気の利いた言葉を思い付くことができず、ただ黙って彼の髪を撫でた。
やがて時が過ぎ、
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