8 彼女が去った後
エレナの残像を眺める。その姿が消えてから、ヴァンは大きく息を吐き、
――おいおい、もっと何かねえのかよ。二年ぶりに会ったんだろ。お前のその重苦しい愛の暴露とか、感動の涙とか、激情のままの……。
「……ちょっと黙っててくれないか」
――ったく、ほんと甲斐性ねえな。もし俺がこの身体の主導権を手に入れたら、もっと気楽に人生を歩めるぜ。いっそのこと今すぐに。
「スヴァン」
不意に、部屋の隅から無機質な声が上がった。視線を向ければ、アリアが続きの部屋の扉を開けて、こちらに歩み寄るところだった。
今回のサシャ訪問にて、アリアはヴァンの目付け役でもある。どうしても敵方と話したいのであれば、アリアの監視は免れられない。どうせ彼女も隣の部屋で聞き耳でも立てていたのだろうから、ハーヴェルが同室していても問題なかったのだが。
「彼女が
扉の方を見遣り、アリアが言う。
「思っていたよりも小柄でしたね」
「そう?」
「スヴァンの話に出てくる
「……そうかな」
クロ然りアリア然り、揃いも揃ってどうしてこうも緊張感がないのか。
「私には、心の機微は分かりませんが、あなたが彼女を大切にしていることはわかりました。きっと、彼女も同じでしょう」
言って、アリアは珍しく、ぼんやりと虚空を眺める。切なげに揺れる長い睫毛の動きを見れば、その心中が自ずと知れる。
「……アヴィンと、喧嘩でもしたの?」
「喧嘩というほどではありません。方向性の違いです」
「方向性って」
「些細な問題ですのでお気になさらず。もう済んだことですから」
ヴァンは微かに首を傾ける。済んだこと、と言うことは、アヴィンの妃の話は関係なかったのだろうか。
「それよりも」
追及を避ける意図があったのかは不明だが、結果的にヴァンはそれ以上の質問を呑み込む。アリアはいつもどおりの彫刻のような無表情で言った。
「問題は山積みです。会合が始まれば、その着地を我々の有利に導く必要がありますし、少なくとも王太女の引き渡しを了承させなければ、今後の統治に影響します。もし同意せず、強硬手段に出るのであれば、彼女の命は保証できませんし」
「そうはさせない」
「あなたの意志を尊重するためにも、善処します。それともう一つ問題が。……里の動きが不穏なのです」
「里?」
オウレアス王国北端の、迷いの森の奥にある、アリアの故郷。永久凍土を抱く山脈の風を浴び、外界との接触を拒絶するあの場所に、不穏という二文字ほど似合うものはない。それでも、ここ一年近く、彼らは沈黙を保っていたのだが。
「我が神の教義は、『戦い、守る』です。あの里がこの混乱の中、
「物資? 武器とか食料とか?」
「ええ、その他もろもろ。ともかく、喫緊の問題は
あの里で罠に嵌められて、身体を奪われそうになった不快感が蘇り、無意識に腕を
それにしても、その教義というのがどうしても身に馴染まない。星の民は空を、波の民は海を、それぞれ神性が宿るものとしてみなす。それらは決して何らかの価値観を強制するものではないはずだ。だが、遙か北山脈を越えた先では、別形態の信仰が守られているのである。
「わかった。でも、アリアにとって里は故郷だよね。反発をして良いの? ……いや、アリアを疑っている訳ではないけど」
アリアの冷たい一瞥を受け、誤解を解くために首を振る。彼女は小さく鼻を鳴らし、窓の外の月に目を遣った。
「私は故郷を好ましく思っていません。それに、以前あなたを里から救出した時からもう、彼らからは目をつけられていますから」
「それはごめん」
「弟は、あの里の風習に洗脳されて、私に殺されたのです。恨みこそすれ、忠義心などありませんからお気になさらず。ただ、アヴィンの支援者でもあるあの里に、完全に背を向けることができないだけ。私が仕えるのは、主神と
最後の辺りは、ややずれた発言のような気がしないでもないが、彼女の口が憎しみや大切なものについて語るのを聞くのは、とても新鮮だった。
「……ありがとう。頼りにしてる」
こちらも気の利いた返答とは言えなかったが、クロの言う通り甲斐性なしの宿命だろう。
アリアの視線を追って、暗闇に開いた穴のような月を見上げる。それは南中に近づいていた。
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