7 再会のアルフェンホテル


 彼女との再会は二年ぶりになる。


 もっとも、高貴な身分である彼女が、国敵の居場所に飛び込んで来てくれれば、のことではあるのだが。


 クロの力を借りて鼠に手紙を持たせた。「俺の力は偉大だ」と常日頃より豪語しているあの神が手配したことだから、無事エレナの手には渡ったことだろう。けれどその後、彼女がヴァンに会おうと思うかどうかは別の話だ。


 さらに、敵の手中に飛び込むような真似、王宮の面々が許すとは思えない。それでも彼女なら、ヴァンに一言……いや、二言三言申してやろうとやって来るだろうという妙な確信があった。


 だから、客人が来たとの知らせが届いた時にも、全く動揺はしなかったし、これまで自分が彼女のために行った全ての裏切りを弁明するつもりもなく、ただ静かにその怒りを受け止めようと思っただけだった。


 どんな罵声も受け入れるつもりだったのだが、彼女は部屋に入るなりとても穏やかに命じたのだった。


「ハーヴェル、外してくれる」


 懐かしいが、記憶の中のものと寸分違わぬ声。緊張にやや張りつめたような声音で命じられたのは、ヴァンを星の騎士セレスダとして鍛えてくれた前任者、ハーヴェルだ。彼はとんでもない命令に眉根を寄せた。


「できません」

「ハーヴェル」

「あなたをお守りするのが私の任務です。敵陣で、あなたをお一人にはできません」


 外套のフードの陰になりエレナの表情は読めないが、彼女は身体をこちらに向けたまま少し首を巡らせ、ハーヴェルに視線を向けた。


「ヴァンは、こんな場所で私を害すような、卑怯なことはしない」

「このに及んでそのようなこと」


 棘のある声で言って、ハーヴェルの目がかつての弟子を睨んだ。憎しみの視線など、とうに浴び慣れた。日中には岩の宮のあの広間で、針山になったかの如く、四方からの鋭い視線に刺し貫かれたのだから。


 ヴァンは、薄明かりの中で怒りに煌めく師の視線を黙って受け止めた。別に、エレナを罠に嵌めるつもりはなく、この後起こる事の前に、どうしても一言伝えたかっただけなのだから、ハーヴェルが同室していたって問題はない。そう言おうとしたが、睨み合いに根負けをしたのは、ハーヴェルだった。いや、ヴァンに負けたというよりは、エレナに負けたのだろう。


「……ヴァン、星の騎士セレスダの教えを覚えているな」

「……『星の姫セレイリの剣となり盾となれ。己の命尽きるまで』……」


 全て言い切る前に冷たく視線を外し、ハーヴェルは不承不承といった様子であるじに軽く一礼して室外に出た。扉が閉まる小さな音が、無為に広い部屋に響き、沈黙のとばりが下りる。


 それを破ったのは、衣擦れの音だ。エレナが無造作にフードを下ろすと、結わずに下ろしたままの長い亜麻色の髪が、胸元に一房零れた。


 微かな灯火と、窓の向こうで大きく輝く月明りを浴びて、黄金色の瞳が光る。ヴァンは息を吞んだ。ぞっとするほどに綺麗だ。彼女は、これほどまでに美しかっただろうか。


 少し痩せただろうか、以前のようなあどけなさが薄れ、純真な瞳はそのままに、しかし苦悩や憎しみの陰りも帯びるその目は、記憶にあるよりもずっと大人びている。彼女の瞳に、ヴァンの姿はどのように映っているのだろうか。


「その目、どうしたの」

「これは」


 ヴァンは我に返って口籠る。クロのことを話せば長くなる。すでに夜は更けていて、二人に与えられた時間はさほどないと思えた。


 ヴァンが答える素振りを見せないからか、エレナは重ねて問いかけた。


「私に、今更何の用が?」


 冷淡な言葉だが、今にも泣き出しそうな表情で、震えを孕んだ声音。ヴァンは無意識に一歩踏み出す。彼女は動かず、真っすぐな視線でヴァンの目を捉える。


「僕を……」

 伝えたかったのはただ一言だった。

「僕を信じて。君だけは、何があっても」


 エレナは目を見開き、ただ黙ってこちらを見つめる。ヴァンもそれに視線を返す。たったそれだけのことだったが、何か通じ合うものがあるように感じたのは、驕りだろうか。


 エレナは何かを言いかけて口を開き、それからまた閉じて、やがて唇を噛み締めて俯いた。


「……ずるい」


 ぽつりと、そう言ったように聞こえた。大きな眼から一筋光るものが零れる。肩を小さく震わせて嗚咽を押し隠す姿に、思わず腕を伸ばす。伸ばして……それは行き先を失って宙を掴んだ。


 涙を隠そうと顔を覆ったエレナの指に、白銀の指輪が光ったのを見たからだ。二年前の彼女にはなかったもの。今の自分に、軽々しく彼女に触れる資格があるとは思えなかった。


 ――おい、なに躊躇ってるんだ。男なら問答無用で抱きしめるもんだろ。


 黙っていてくれと口を開きかけたが、事情を知らないエレナの耳に入れば、いらぬ誤解を招きかねない。同居人の言葉は無視をして、ヴァンは腕を下ろしてから、やや俯いた格好をしたエレナの亜麻色の頭頂を見守った。


 彼女は幼い頃から愛らしい容姿をしていた。星の姫セレイリの美しさは宮殿の内外に知れ渡っていたし、誰もがそれを純粋に、神の子、すなわち星の女神セレイアの象徴として、誇らしく思ったものだ。それはしかし、御子であればこそ。


 今のエレナは、星の姫セレイリであると同時に、将来は俗世の王となる者。その美しさは、神の子であるからこそ誰に摘み取られることもない、言うなれば聖サシャ王国民全員の物だったのに。その指に光る物が、彼女がもう、皆の星の姫セレイリではないのだということを残酷なまでに示すようだった。


 いっそ、エレナがとても醜い姿であればよかった。誰もが、彼女の美しさを持てはやすけれど、ヴァンはエレナが仮に世の人々が目を背けるような容貌だったとしても、その全てを抱きしめたいと渇望するだろう。


 誰の隣で過ごし、誰を愛そうとも、エレナが幸せであればそれで良いと思っていた。いや、思い込もうとしていた。それはただの虚勢だったのだ。星の騎士セレスダとして叩き込まれたその教えも、牢固に築き上げたつもりになっていた心の堰も、この二年で、とっくに崩れ落ちていた。なんて残酷なのだろう。気づかなければよかった。気づいたところでもう、どうにもならないのだから。


「……私が……私たちが、どんな思いで」


 嗚咽の合間に紡がれる恨み事を、静かに聞く。


「あなたがいなくなって、殿下が亡くなってしまって。……全部、変わってしまったわ。あなたも、私も。この国も。……それでも……いつも……思い出すのは。昔のままの……あなたのことばかりで」


 エレナが小さく鼻を啜る音と、暖炉の薪が爆ぜる音が重なる。


「生きていたらどんなにいいかって、ずっと思ってた。……でも、こんな形で……あなたが憎まれるのなんて、見たくなかった。どうして、こうなったのか……私にはわからない、けど……」

「きっとわかるよ。全て終わったら」

「いつ……終わるの? ヴァンは、いったい何を、したいの?」


 顔を覆った手を離し、彼女は大股で一歩距離を詰める。少し手を伸ばせば抱き締められる距離にありながらも、そうすることはできなかった。エレナの、涙に濡れた瞳に胸が締め付けられる。


「私たちの敵になって、どうして……平然としていられるの。私は、あなたの何を信じればいいの」

「今は言えない」

「どうして」


 言えば、彼女は反対するだろうからだ。それでも、孤独な闘いに身を置きながらも、どこか遠くでエレナが信じてくれているのだと思えば少しだけ心が軽くなるような気がしたのだ。エレナに会いたかったのは、彼女の不安を和らげるためではなく、ヴァン自身のためだったのだろうか。その結果エレナに涙を流させてしまった。自分の身勝手さに失望する。ただ、謝罪をすることしかできない。


「……ごめん」

「あなたらしい。変わったようで、そういうところは何も変わらないのね」


 皮肉を言われたらしいが、エレナの頬に浮かぶ悲しみが微かに姿を潜め呆れに変わったのを見れば、反発心など湧いては来なかった。そもそも、この度の件についてはほとんど全てヴァンに非があるのだ。


「どうだろう。君も、変わらないね」

「どういう意味で」

「良い意味だよ」


 エレナは少し顔を顰めてから、小さく息を吐いた。それから表情を緩める。


「何があったのか、これから何をするのか、何一つ教えてくれないのね」

「今は」

「わかった」


 彼女は小さく頷いた。もっときつく問い詰められることを覚悟していたのだが、エレナはヴァンの秘密を受け入れたようだった。


「……もう行くわ。早く戻らないと……メリッサが、心配するもの」

「そうだね」


 同意すれば、エレナは何かを躊躇するようにこちらを見上げて、結局は何も言わずに踵を返した。


 扉の側で肩越しに振り返り、小さく「さようなら」と言ったようだった。フードを目深に被り直し、それ以降はこちらに一瞥もくれず、小さな背中はぼんやりとした廊下の明かりの中に吸い込まれて行った。

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