6 王宮脱出

 夜が更け、岩の宮が寝静まる頃。議場では引き続き夜通しの議論が繰り広げられている。侍女が休んでいるため、着替えを用意することもできず、忍び足でなんとか厚手の外套を確保して着込む。初夏に纏うにはいささか生地が厚いが、薄い部屋着の上から羽織るのであれば、温かさとしては丁度良い。


 細く扉を開く。岩の宮内、見回り当直はいるものの、扉の前を守る騎士はいない。もしかしたら今宵だけは、エレナの外出を防ぐために見張りがいるのではないかと気を揉んだのだが、杞憂だったようだ。


 足音を立てぬよう、滑るように回廊を進む。途中、何度か人目に触れそうになったものの辛うじてやり過ごし、無事庭園に出た。肩越しに振り返れば議場の明かりが宵闇に淡く浮かび上り、一抹の罪悪感が蘇る。


 メリッサの涙が脳裏を過る。彼女の言う通りだ。ワルターは失望するだろうし、岩の王サレアスや、エレナを守ろうとしてくれる全ての人々を裏切ることになる。……だからこそ秘密裏に抜け出して、何食わぬ顔で朝を迎える必要がある。そのためには、一つ大きな問題があった。


 王宮の門は東西に二つあるが、指定されたアルフェンホテルは西街区にあるため、西側の門から出るのが良いだろう。しかしこの時間。当然門は閉まり、警備兵も詰所で目を光らせているだろうから、密かに抜け出すには骨が折れる。


 エレナは庭園端の高木に登り、外壁の上を伝って外に出る計画でいた。この計画だと、戻る時には門を開かせなくてはいけないのだが、その方法は帰りに考えようと、持ち前の楽観さを遺憾なく発揮した雑な計画だ。策士が聞けば呆れて言葉も出ないだろう。


 結果的に、エレナのこの即興計画が実行に移されることはなかった。よじ登るのに丁度良い木を探して西門に近づいた時、門が開かれていることに気づいたのだ。


 こんな時間に来客だろうか。それとも誰かが外出をするのだろうか。怪訝に思い目を向けて、そこに一頭立ての黒い馬車を見つける。闇に溶け込む色合いのそれは、エレナが普段聖都へ出かける際に利用する小ぶりな馬車。その横に、見慣れた騎士の姿があった。


「ハーヴェル」


 思わず呟く。星の姫セレイリの祭祀の際には今でも定期的に顔を合わせる、母の騎士。彼は何かを待つように、気が立った様子で馬車の側を行ったり来たりしていた。


 何事だろうかと思ったのと、どうせ門が開いているのであれば、密かに抜け出せないものかと思い、茂みの中をかき分けて進む。ハーヴェルの視界に入らない場所を選んだはずだったが、熟練の騎士に対しては、エレナの気配の消し方など、全く歯が立たなかったようだ。


「……エレナ様」


 呼びかけられ、慌てて動きを止める。急な動きに、エレナの意思に反して茂みが大きく揺れた。ここにいます、と主張したようなものだ。ハーヴェルは呆れたように言う。


「おでください。そこにいらっしゃるのは分かっています」


 束の間の躊躇の末、エレナは大人しく茂みから出る。髪に付いた枯れ草を払い、捕らえられた獲物の気分で、ハーヴェルの前に進み出る。


「あの、ハーヴェル。実は」

「わかっています。あなたを待っていました」

「私を?」


 耳を疑ったが、どうやら聞き間違いではないらしい。ハーヴェルは不本意極まりないというような表情で、馬車の扉を開いた。


「どうぞ。お一人で行かれるくらいであれば、私が一緒の方が安心です」

「どうして知っているの」


 困惑して問うてみたが、彼は肩を竦めるだけで答えない。回答がなくとも、この件を知っているのはエレナとメリッサだけなのだから、彼女がハーヴェルに漏らしたのだろうことは明白だ。


 エレナの性格を熟知している彼女は、今晩エレナが抜け出すことを想定して、ハーヴェルに守護を頼んだのだろうか。メリッサに顔向けできないと思えども、ここで脚を止める気はなかった。


 エレナはハーヴェルの手を借りて馬車に乗り込む。温かくなり始める季節とはいえやはり、夜は冷える。腰を下ろした座席がひんやりと、尻を冷やした。御者に行き先を告げハーヴェルがエレナの向いに座ると、鞭を当てられた馬が進み始める。


 ハーヴェルが黙り込んでいるため、道中空気が重い。エレナも彼に掛ける言葉はなく、始終無言のまま、馬車は目的地へと向かう。アルフェンホテル。国内外の貴賓が滞在する一等の宿泊施設。使臣の滞在場所として王宮が指定した場所だ。


 ホテルの周りでは黒岩騎士や聖都の憲兵が厳重に警備にあたり、いかにも不穏な様子だ。仮に誰にも気付かれず王宮を出ていたとしても、ここで捕らえられてしまっただろうと今更ながら気付いた。


 暗い煉瓦色の建物から漏れ出る朱色の明かりを見上げて、エレナは外套の襟を掻き合わせた。彼との邂逅は、二年ぶりになる……。


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