5 母の思いと娘の意思
※
器楽室の窓から、淡い夕日が差し込む。ピアノの丸椅子に腰掛け、
物思いに耽る時、無意識にこの場所を訪れる癖があった。大きな窓からは庭園が見渡せるし、神笛の練習だと言えば、一人になることもできたからだ。だが本日は、部屋の隅にメリッサが控えている。謁見の間での出来事を耳にした彼女は、エレナを心配し、側を離れようとしなかった。
議場では、緊急の議会が開かれている。親書の内容は詳細には把握していないが、イアンをはじめとした数名の精鋭が捕虜となり、返還の条件決定のため、
曲がりなりにも王太女であるエレナも議会に参加すべきと思ったが、やんわりと止められてしまった。かねてより、
そんな要求を手にしてやって来たのがヴァンだということが、未だに信じられない。彼が生きていた、という事実は、他の誰が口惜しがったとしても、エレナにとっては喜ぶべきことだったはず。それでも、問い詰めたいことばかりが溢れ返り、純粋に彼の無事を安堵できない。なぜあの日、エレナの側を去ったのだろう。最初から計画のうちだったのだろうか。なぜ、こんなことを……。
「エレナ様っ!」
やや上ずったメリッサの声で我に返る。視線を向ければ、メリッサは片手で口元を覆い、もう一方の手でエレナの足元を指差して震えていた。その指先を辿り、思わず丸椅子を蹴るようにして立ち上がった。足元に、小さな白い
「どうしてここに鼠なんて……あれ?」
鼠の背中に、筒状に丸めた紙が結びつけられている。己の身体よりも長さのある物を括り付けられて重苦しそうな小動物は、難儀しつつ四足を動かしエレナの前にやってきて、こちらを
一瞬躊躇ったものの、手を伸ばして鼠の身体から紙を解く。小汚い鼠に触れたエレナに、メリッサは危うく悲鳴を上げる勢いだったが、エレナの意図を察して呑み込んだようだった。身体に括り付いた物から自由になると、鼠は一目散に駆け去って、窓の隙間から外へと逃げて行った。
「エレナ様、それは」
未だその書簡に触れるのを躊躇いがちにするメリッサ。エレナがそれを開くと、少し右肩上がりの筆跡が並ぶ。『今宵、聖都アルフェンホテルにて』。
「……ヴァンの筆跡だわ。私に来いと言っているのよ」
「いけません!」
メリッサが、いつになく強く言った。幼い頃、いたずらをして叱られた時以来の鋭い声だったので、エレナは目を丸くして乳母を見る。
「絶対に行ってはいけません。あなたを北へ攫うための罠かもしれません」
「ヴァンはそんなこと」
「ええ、私もそう信じていました。ですが今日、その信頼は裏切られた。そうでしょう」
明言され、返す言葉もない。そう、裏切られたのだ。誰よりも信じていたのに。でも、だからこそ。
「会って話さないと」
「エレナ様。お願いですから……」
不意にメリッサの表情が歪む。その眼に涙が浮かび、一筋頬を伝った。まさか泣き落とそうとしたのではないだろうが、結果的にエレナの勢いを削ぐことになる。メリッサはエレナの手を取り、慈しむように包んだ。
「正直に申し上げますと、彼が生きていたのだとしても……たとえ敵方についていなかったのであっても。もう、戻って来ないで欲しかった。会えば、あなたの心が揺らぐと知っていたからです。私は、あなたが苦しむのは見たくないのです。全部忘れて、この場所で平穏に生きて欲しい」
「どちらにしても平穏になんて生きられないわ。今だって国境付近では小競り合いが起きているの」
メリッサは首を振る。涙が更に一筋、顎を伝って板張りの床に染み込んだ。
「それは陛下にお任せになってください」
「あなたも私に、お飾りの人形になれと言うのね」
「私はあなたの母です。娘を危険に飛び込ませないためならば、人形のようにも扱いますし、縛り付けることだってします」
血を吐くような言葉に、エレナは口を閉ざす。メリッサが心の底から、エレナのことを思いやってくれていることは伝わる。涙を流す母を振り払うほど冷酷にはなれない。それでも、譲ることはできなかった。
「メリッサ。それでも私は」
「こんなこと、ワルター様が知ったらどうお思いになるでしょう。あなたを北へ遣らないために、今も議場で汗を流していらっしゃるのですよ」
これ以上、反論する言葉は持ち合わせていなかった。エレナは黙ってメリッサの背中に腕を回す。母の涙など、初めて見た。それほどまでに自分を案じてくれているのだと思えば、彼女に言い募ることは憚られた。いつも見上げていたその姿は、いつしか正面から視線を交わすようになり、今腕の中にいるメリッサは、思っていたよりもずっと小さく感じられた。
エレナが口を閉ざしてしばらくすると、やがてメリッサは目尻の涙を拭いて、身体を離す。赤く腫れた目元が痛々しい。視線が合うとやや決まり悪そうにしてから、彼女はエレナの髪を梳いた。
「お願いですから、危険なことはしないで」
「……わかった。心配させてごめんなさい」
囁くと、やっとメリッサは微笑んだ。こちらも笑みを返して取り繕いながらも、罪悪感が胸を鋭く刺す。メリッサには申し訳ないが、どうしても引くことはできない。ここで彼と話さねば、それこそ一生後悔するとわかっていたから。
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