4 青天の霹靂のごとく


 謁見の間に、重鎮が居並ぶ。岩の王サレアスの象徴である黒に、銀の刺繍が施された精緻な縫製のドレスを纏ったエレナは、すでに所定の位置に立っていたワルターの隣に寄り添った。向けられた視線は、昨日の諍いの片鱗も感じられぬ普段通りのもの。それでも、寝不足の顔に浮かぶ微かな懸念を察し、エレナは囁いた。


「昨日は、ごめんなさい」


 ワルターは束の間、驚きに目を丸くしたようだが、すぐに表情を和らげる。


「いいや、僕の方こそ。あんな言い方をするつもりはなかった」


 エレナはぎこちなさの残る微笑みを返し、ワルターの指を掴む。躊躇いがちに触れたのだが、予想に反して彼は、しっかりと握り返してくれた。


 謁見の間の入り口が、不意に騒がしくなる。青い目の魔人がやって来たのだろうか。いよいよ宿敵との対面だと思えば、身体が緊張に強張る。いかに因縁があると言えども、倫理的に考えて使臣を害することなどできないのだが、敵の顔を睨んでやる程度なら許されても良い。


 息を潜めていたのはエレナだけではない。広間全体の空気が、極限まで引いた弓の弦のように張りつめていた。


 やがて、重厚な扉が僅かに開き、黒岩騎士の一人が滑るように入室し、深々と礼をしてから慌ただしく岩の王サレアスの側に膝を突く。「何事だ」と王に問われれば、彼はちらりとこちらを一瞥し、「それが……」と言葉を濁した。何やら問題があったようだ。


「どうした、述べてみよ」


 再度王に促されて、騎士は改めて一礼した後、王にだけ聞こえる声で何事かを囁いた。その額には玉のような汗が浮いており、まだ初夏だというのに妙だった。声に耳を傾ける岩の王サレアスの表情が、珍しく揺らぐ。次第に目が見開かれ、続いて嫌悪感も露わに顔を顰めた。


「そのような戯言ざれごとを誰が申した」

「真実でございます、陛下。私も、この目で見るまでは……」


 王は意図せず浮かべた激しい表情を取り繕うように瞼を下ろす。再び瞳が現れる頃には、いつもの落ち着きに満ちた表情に戻っていた。


「偽りではないと申すか」

「誓って」


 騎士がもう一度こちらに視線を向けた。二度も目を向けられれば、どんなに鈍感でも、何か含みがあるのだろうとわかる。ワルターの表情を掠め見たが、政治家の仮面を付けた彼の頬からは何の感情も読み取れなかった。


「使臣が何者であったとしても、迎え入れるしかない。通せ」


 その指示は、眼前の騎士を飛び越え、扉の両脇に控えた儀仗兵ぎじょうへいと侍従に届く。詳細な事情を知らぬ彼らは、躊躇いなく扉を開いた。


 今度は大きく開かれた両開きの重厚な戸。広間へと繋がる回廊には明かり取りの嵌め殺し窓が並び、午後一番の陽射しを取り込んでいる。その黄金色の光が室内に雪崩れ込み、束の間目が眩んだ。


 咄嗟に細めた目が光に慣れた時、視界に映ったのは、濡れ羽色の髪を緩く編んだ、長身で整った容姿の女性だった。彼女が使臣か。いや、青い目の魔人は男性だったはず、と視線を巡らせ彼を見て、全ての思考が停止した。


 息を吞んで言葉もない。少なからず、周囲の面々の中にも同様の反応を示した者がいたらしく、室内には微かな悲鳴にも似た鋭い呼気が満ちた。


「なぜ」


 消滅した自我が蘇ると、思わず呟きが漏れる。銀灰色の絨毯の上、黒髪の女の斜め前を歩むその足取りには、躊躇いがない。


 以前より少し伸びただろうか、茶色の髪はそのままで、柔和な印象に少し下がった眦も変わらない。だが、睫毛の縁取りの中にあるのは見慣れた瞳ではない。深い、海溝を覗き込んだような深海の藍色。


 ふと思い当たる。彼は、ヴァンの兄弟か何かだろうか。そうとしか考えられない。目の色が違うどころか、彼がサシャの敵に回るだなんて、そんなことあるはずがないのだから。


 だがエレナの楽観は、岩の王サレアスによって打ち砕かれる。王は玉座のひじ掛けを軋むほど強く握り締め、常にはない険しい表情で、眼前に片膝を突いた使臣を睨み下ろす。


「その顔をまた目にすることになるとは。それも、このような形で」

「……私スヴァンジーク・レ・オウレス。波の王オウレスより、親書を預かっております。どうぞお納めを」

「オウレス、だと」


 岩の王サレアスは虚を突かれた顔をしてから、臣下の前では滅多に感情の揺らぎなど見せぬ彼にしては珍しく、低く唸るような笑い声を上げた。


「そういうことか。そなたはこの国に送り込まれた間者だったのだな。それも、先王の忘れ形見か。我々はそうとも知らず、そなたを重用し、あろうことか星の姫セレイリの側に」

「それは、違います。断じて」


 鋭い返答と、許可なく王の目を見上げて潔白を訴える藍色の瞳。そこに含まれた怒気ごときに怯む岩の王サレアスではない。鬼神のような眼力で足元の若造を睨み潰してから、軽く片手を上げて傍らの騎士を促す。


 意図を悟った黒衣の壮年騎士は、かつての同僚と思しき使臣が掲げ持つ親書を、戸惑いがちに受け取る。王の許可を得て開き、軽く撫でて危険がないことを確かめてから、主君に差し出した。


 見る物を斬り付けるような表情のまま、紙面を視線でなぞる。文面を二往復してから、王は騎士にその紙を押し付けるように手渡した。強面の岩の王サレアスの怒気に、空間が振動するような錯覚を覚えた。


「よくもこのようなものを平然と持って来たものだ。星の騎士セレスダが」

「……もう、星の騎士セレスダではございません」

「当然だ」


 腹の底から絞り出されたような高圧的な声が響き、居並ぶ面々は自分が叱責されている訳ではないにもかかわらず、身を竦めた。一方エレナにとっては、全てのやり取りが薄布一枚を隔てたような、或いは水中で聞いているかのような、ぼんやりとした感覚の中で繰り広げられている。


 ヴァンの目は茶色だったはずだ。それがなぜ、波の加護を。いや、そんなことよりも、偽王オウレスの一派は日蝕の儀でエレナに矢を射て、イーサンを死に追いやり、ヴァン自身を害したはず。彼が、なぜ敵の使臣としてここに。幼少の頃より築き上げてきた二人の絆は全て、彼の周到な演技の産物だったのだろうか。


 不意に、右手に温かいものが触れて顔を上げれば、こちらもまた険しい顔をしたワルターが、人知れず手を握ってくれたようだ。その温かさに、動揺に冷えた心が幾らか落ち着きを取り戻す。


「……会合には応じよう。ただし、全ての条件を受け入れるとは思わないことだ。疾くね。二度とこの宮に足を踏み入れるな」


 ヴァンはその場で深く頭を垂れ、頬に硬い表情を張り付かせたまま、腰を上げて踵を返す。ヴァンの視界にはエレナも入っていただろうし、謁見の間には旧知の顔があったはずだが、彼はその誰にも視線を向けず、足早に去る。始終表情を変えない黒髪の女性は、影のようにそれに付き従った。


 使臣が回廊に出て、両開きの扉が重い音とともに閉じても、広間の空気は重く沈殿したままで、しばらくは誰も身じろぎしなかった。

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