2 諍い②


 彼らの姿がなくなり、張りつめていた息を吐いても良い頃合いかと思いきや、先ほどから黙りこくったままのワルターの表情を窺ってみれば、そう単純にはいかないようだ。何を思案しているのだろうか。エレナはとりあえず声をかけてみる。


「忙しい時間だったでしょう。呼び立ててしまったみたいでごめんなさい」

「いいや、特に問題はない」


 言葉に反し、大いに問題がありそうな様子で腕を組んだまま窓枠に寄りかかる姿に、エレナはやや眉根を寄せた。


「怒っています?」

「怒っていないように見えるかい」

「見えませんけど……そんなに忙しかったんですか」


 多忙な時期であることは確かで、ここ数日、彼が寝室に戻って来るのは真夜中を過ぎた時刻だし、食事も悠長に取ることはなくなり、特に昼食は執務室に運ばせて一人で食べているとのことだった。


 神経擦り減るような状況のワルターを支えるどころか、仕事を増やしてしまっていることに罪悪感は抱いているものの、秀才で要領の良いワルターには、エレナの補佐など逆に邪魔になってしまうのではないだろうか。どちらかと言えば、干渉せずに静かに過ごすことが一番の貢献とばかりに、二人の距離は近頃疎遠である。


 だからてっきり、執務を中断させてしまったことが不機嫌の原因かと思ったのだが、どうやらそれは主たる理由ではなかったようだ。


「仕事を遮るな、などという心の狭いことは言わない。むしろ、本当に何かあれば呼び出してもらって問題ないのだが。僕が言いたいのは……あなたには立場を弁えてもらえたいということだ」

「立場?」


 思わず復唱してしまったエレナに、ワルターは呆れ交じりに小さく息を吐いたようだった。


「あなたは星の姫セレイリ。同時に岩の王サレアスの一人娘。あなたに何かあれば、この国はどうなるか想像したことがあるかい」


 実例で言うならば、岩波戦争はエレナの毒殺未遂で起こった戦争だ。さらに、この不穏な状況下、岩の王サレアスの直系が断絶すれば、多少なりともオウレアス王国につけ入る隙を与えることになる。それくらい、わかってはいるのだが。


「別に王宮から出たり、危険なことをした訳ではないわ」


 けんのある声音になってしまったのだが、対してワルターの様子は変わらない。


「素性の知れぬ亡命者と、密室に入り込むのが危険ではないと? 今回は危うく毒蜘蛛の餌食になる可能性もあったのだし、その蜘蛛だって彼らが故意に用意したものではないと、確証はないだろう」

「確かに無条件に信じ込むべきではないと思いますけれど、王宮に保護している亡命者です。彼らをほんの少しでも、もてなしてはいけない? 現に、彼らがもたらしてくれた情報は、戦略上の大きな資料となっているでしょう」


 現在までのところ、リュアンやイッダがもたらした北方の地形や紫波騎士団の弱点、反体制派……今となっては偽王現オウレスを擁立した勢力の情報などは、戦略上こちらが優位に立つのに大いに役立っているという。


 彼らがサシャに害を成すものであると懸念するには、提供された情報は上質に過ぎた。とはいえ結局、青い目の魔人をどうにかしないことには、睨み合うだけで大きな進展はないのだが。


 ワルターはここでやっと腕を解き、窓枠から離れて一歩こちらに歩み寄った。


「他者に寛容なのは王の資質の一つだが、それだけでは一国の王は務まらない。あなたが寛容になることで、他の臣下やこの国に悪影響がないのか、冷静に見極める必要がある」


 そんなもの、わかるわけがないと言いたかったが、唇を噛んで言葉を押しとどめた。エレナは星の姫セレイリとして、自己犠牲の上に成り立つ全信徒の平穏こそ善と教え込まれて育ってきたのだ。いまさら俗世の王者として、己を顧みろだなんて。


 表情に出ていたのだろうか、それともエレナの考えそうなことなどお見通しだったのか、ワルターは少しだけ取り繕うような口調になる。しかし続く言葉は、声の抑揚に似合わず、こちらの気を逆撫でする内容だった。


「その判断は僕がする。あなたはただ、軽卒を控えてもらえればいい」


 その言葉を聞いて、頭に上っていた血が、急速に冷えた気がした。納得からではない。一種の諦観だった。


 久方ぶりの晴れの陽射しを受けて、ワルターの淡い金色の髪が煌めく。岩の王サレアスよりもずっと明るい色合い。容姿も似てはいない。しかし彼の中には、確かに王家の血が流れている。


 ワルターの祖母は、現王の祖父の妹だった。つまり、エレナにとって曾祖叔母そうそしゅくぼに当たる女性が、レイザ公爵家に降嫁していたのだ。


 名門貴族の生まれであるワルターは大学院を主席で卒業した秀才だし、幼少の頃より政治に携わるための教育を受けてきたのだろう。王として、何の素養もない王太女よりも彼の方が、ずっとその役目に相応しい。


 実際、エレナも岩の王サレアスも共に死んでしまったのならば、王位はその親戚筋であるいくつかの家のうち、いずれかに引き継がれるだろう。もちろんその候補に、レイザ公爵家も入る。


 エレナに万が一のことがあった程度で揺るがされるほど、この国は脆くない。此度の婚姻も、事実上断絶に等しい岩の王サレアスの後継者争いを防ぐため、由緒ある親戚筋から形ばかりの王配を選んだというだけだろう。お飾りとしての存在意義以上のもの、エレナにはないのだ。


「私はただ黙って、人形のようにあなたの隣にいれば良い。そういうことですね」

「そうは言っていない。ただ、あなたがこの国にとってどれほど重要な存在なのかを……」

岩の王サレアスの直系が私しかいないから? それが理由なら、私はただ血を繋ぐだけの道具ですか。……あなたにとっても」

「エレナ、思い違いをしているようだが」


 ワルターの緑色の瞳と視線が重なる。エレナの表情を見て、彼は口を閉ざした。何を言い募っても聞く耳がないとでも思ったのだろうか。


 互いの間に愛などなくとも、何かしらの情はあると思っていたのは、エレナの驕りだったのだろうか。髪を撫でる指先や、重ねた唇から感じたものが血肉の通った情でなかったのであれば、どこまでも周到な演技だったとでも言うのか。


「……聞き訳がないことを言ってごめんなさい。頭を冷やしてきます」

「エレナ」

なことはしないから。一人にして」


 拒絶を示せば、それ以上引き留める言葉はない。振り返りもせず扉に向かい、サーラが気まずげに立ち竦んでいたことに気づく。彼女にすら一瞥もくれず、手ずから扉を引いて部屋を飛び出した。


 裾をからげて大股に廊下を歩く王太女に、すれ違う人々は怪訝そうな視線を向けたが、声をかけてくる者はいなかった。

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