第五幕 重なりすれ違う道の上に
1 諍い①
鋭い痛みに顔を顰める。激痛を堪えるために強く口を結んでいたため、無様な叫びを上げることはなかったが、代わりに目尻に涙が浮かんでくる。
あまり大袈裟にしてしまえば、窓辺で腕を組むワルターの表情がより険しくなり、壁際で小さくなっているリュアンがより縮こまって、その隣に立つイッダが密かに口を尖らせるだろう。
エレナは何でもないような表情を取り繕い、右腕の切り傷に塗られた粘度の高い草色の軟膏を観察した。
王宮の温室で育てられている殺菌作用のある薬草を数種類磨り潰し、粘度を保つために薬剤を添加し、傷口に留まるように調合されている。傷に乗せた瞬間こそ息が止まるような激痛を感じたが、しばらくすれば患部がひんやりとして、心地よい。だが、この部屋に流れる空気は、到底快適なものではなかった。
「しばらくすれば、傷痕も残らず治りますよ」
小さな切り傷ごときで呼び立てられた初老の宮廷医長は、いつもの無表情を崩さず、淡々と業務を進める。エレナの腕を、細く裂いた清潔な布で軟膏ともども覆ってしまえば、実際よりも大層な大怪我のように見えてしまう。注目を浴びたくはなかったのだが、こうして傷を保護しなければ化膿するかもしれないと言われてしまえば、それ以上反抗することはできなかった。
やがて淡々と役目を終えた宮廷医長が部屋を辞するのに合わせ、リュアンが口を開いた。
「殿下、この度は本当に」
「大丈夫よ。気にしないでください」
丁重な謝罪も何度も耳にしてしまえば、ありがたみも薄れるというもの。ワルターの冷たい視線が注がれるこの状況下において、それは
「私があんなところにお連れしたからいけないのです。地下室とはいえ、まさか王宮内に毒蜘蛛がいるなんて」
事の経緯はこうだ。リュアンとイッダと共に
飛び出してきた大蜘蛛が毒のある種類であると知っていたリュアンは、手近な燭台を武器として、それを叩き潰そうとしたのだ。しかし火の灯っていない予備の燭台を掴む際、誤って明かりにしていた方の燭台の灯火を煽って消してしまったのだという。
暗闇の中、エレナのすぐそばには毒蜘蛛が。リュアンは暗闇に目が慣れた頃合いを計り、燭台を振り上げて蜘蛛に叩きつけようとしたのだが。不意にエレナが手燭に火を付けたため目が眩んでしまい、あろうことか目測を誤ってしまったのだ。
攻撃は目標の横の地面に炸裂する。蜘蛛はその隙をついてどこかへ去り、衝撃で外れた燭台の破片がエレナの腕を切り裂いた……というのが顛末だ。
結局蜘蛛はどこかへ行ってしまったので、地下に殺虫の煙を焚くということで事後処理は完了したのだが、
「とにかく、あなたが気に病む必要はありません。私を助けてくれようとしたのですから」
「ですが」
なおも恐縮しているリュアンを半ば追い立てるように、エレナは首を振る。
「本当に、気にしないでください。……イッダ、そろそろお腹が空いた頃でしょうね。厨房に言って、料理を温め直させましょう」
急に話を振られて怪訝そうにしたイッダだが、陽はすでに中天を過ぎている。昼食を食べそびれていることを思い出してしまえば、育ち盛りの少年の食欲は誤魔化せない。
イッダは小さく頷いて、リュアンの顔を窺った。そこでやっとリュアンは、繰り返し謝罪を述べる口を閉ざす気になったようだ。
話がまとまったのを見計らいエレナが視線で促せば、長年の付き合いである
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