15 南へ


 一、二、三。深呼吸と共に、怒りを抑え込む。元星の騎士セレスダハーヴェルとともに編み出した、怒りを制御するまじない。これを行うのは二年ぶりだろうか。ヴァンは心がいくらか落ち着いたのを確かめてから、瞼を上げた。眼前には、見慣れた兄の藍色の眼。闇に溶け込むかのような、暗く深い色。


「僕に、これを持って行けと」

「そうだ」


 アヴィンは表情を変えず、二人の間に位置する机上に置かれた親書を見下ろした。本来、このように無造作に置かれるべき物ではないのだが、ヴァンが受け取らなかったため、便箋の封蠟は所在なさげに天井を仰ぎ見ている。


「危険な任だ。そなた以外に適任者はいない。青い目の魔人の恐ろしさは、岩の王サレアスも聞き及んでいるだろうし、そなたが使臣であれば、サシャも手出しはしないだろう」

「どうだろうね。僕は彼らにとっては死人で、売国奴だ」

「それでも、星の姫セレイリはまさかそなたを害しやしないだろう」

「こんなものを持って来たかつての臣下を、殺したいくらい憎く思うかもね」

「だが、誰かがやらねばならない」


 一歩も譲らぬ態度に、ヴァンは閉口する。捕虜を捕り、これを材料として敵国に交渉を投げかけるのは至極真っ当なことだ。親書の内容も、波の王オウレスからの申し出としては、筋が通っている。それでも、ヴァンはこの親書を、かつて仕えた王に渡す役目は御免だった。


「良いか、スヴァン。これが受け入れられれば、戦いは避けられる。国は一つになり、平和が訪れる。わかるだろう」

「和平交渉の条件に、王女を寄越せだなんて。人は道具じゃない」

「交渉だけではない。捕虜の返還にも応じる」

「彼女にはもう……夫がいるはずだ」

「それがどうしたというのだ。高貴な生まれの者の中には、二度と言わず夫を変えた女性も多くいる」


 話が通じない。為政者として大局的に考えるのであれば、アヴィンの言葉は正しく、情で議論をするヴァンとは嚙み合わないのが当然だった。机上の便箋を睨むように見下ろす。


「気が進まないと言っている元敵方の人間に、あちらと接触させてもいいのか。裏切るかもよ」

「問題ない。アリアを目付け役にする」


 その言葉に、束の間口を閉ざす。眼前の男がいかに情を持ち合わせていないのか知れる思いだった。アリアとアヴィンの間には、単なる主従を越えた情があるはずではなかったか。


 親書には、捕虜の返還と、戦勝戦敗の別を付けぬまま和平交渉へと進む条件に、王女を波の王オウレスの妃に迎えることが明記されている。二つの国が再び一つに。長期的に見れば、民にとって良いことかもしれないのだが。アリアの目にそれは、どのように映るだろう。


「アリアの気持ちを、考えたことないのか」

「最初からそういった計画だった。我々の関係はその上に成り立っている」

「……わかった」

 ――あいつがクソだってことがな。


 ヴァンは人知れず頷き、何を言うのも無駄だろうと諦めて乱暴に机上の物を掴んだ。そのまま、アヴィンには視線も向けずに戸口へ向かう。念を押すような兄の声が、背中に降りかかる。


「スヴァン。信じているぞ。……戦場で、私をサシャに売り渡さなかったそなたを」


 束の間、思わず足を止めたものの、振り返ることはしなかった。何を今更言われようと、彼への不快感は消えなかった。


 ――ヴァン。従うのか。

「それ以外に方法はないよ。おかげで決心もついたし、逆に良かったと思おう」

 ――最近、お前が投げやり過ぎて心配になることがあるんだが。

「そう? クロに似たのかもね」


 八つ当たり気味に言ってしまったが、クロは特に反発しなかった。


 翌日、ヴァンとアリアは使臣として聖サシャ王国聖都へと出立した。ちょうど南方では、雨雲の切れ間を見ている時期であった。


第四幕 終

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