13 雨上がりの庭園で
※
アーヴェ川での一連の出来事と時を同じくして、聖サシャ王宮の空は、久方ぶりの晴れ間を見せていた。事の顛末が届くまでには、しばらく時間が必要である。王宮は嵐の前の静けさに包まれていた。
庭園の花々は幾日か振りの陽射しを求め、大きく伸びをしているかのようだ。花弁を伝う朝露が土を湿らせ、朝日に照らされて微かな水蒸気が立ち上る。
ここ数日、雨が降り続いていたため気温が低かったが、今日は暖かくなるだろうということは、朝一番の陽射しからも感じ取れる。寒の戻りが一段落し、いよいよ初夏に向けて、草木が萌ゆる頃である。
エレナは若木のように伸びをして、胸いっぱいに清々しい空気を取り入れた。一人で気ままに花を愛でるのは、もう何年ぶりだろう。二年前まではヴァンと並んで歩いたものだし、彼が亡くなってからは、イアンと一緒のことが多かった。
今朝一番、庭園に出てみてはどうか、と提案したのはメリッサだった。理由は明白。エレナの気分転換を兼ねてのことである。
昨年より、雨が続くことが増え、陰鬱さにただでさえ気が滅入る。さらに、この異常気象を、
そのような不敬を大々的に述べるのは言うまでもなく、例の大衆新聞社だけであり、現時点ではほとんどの一般民衆も、それを面白おかしく読んでいるだけではあるが、実際に災害が続けば、どうなることか頭の痛い問題だ。
足元の草花は、そんな人間たちのいざこざなど知らぬ存ぜぬとばかりに、優雅に煌めく。幼い頃、乳母であるメリッサに手を引かれ、幾度も歩いた道。大人になってみれば、幼少に感じていたよりもずっと狭い小道だ。
ここ数日、自室と執務室を行き来するだけの窮屈な日々を送っていたものだから、解放感に満たされるのはとても爽快だ。もちろん一人と言えども、警備のため近衛が要所要所で目を光らせているのだが、ぞろぞろと付き従う者がいないだけでも、気分は変わるものだ。
庭園は中央部の巨木を囲むよう、円形に整えられている。巨木は神樹とも呼ばれ、神話の時代からそこにあり、この地を見守っていたのだと言われている。エレナは無意識に巨樹に引き寄せられるように歩き、植え込みを越えたところで先客がいることに気づいた。
南方風の普段着のシャツを纏っているのが目に新しい。相手もこちらの気配に気づいたようで、胸に手を当てて会釈をした。
「これは、殿下。清々しい朝ですね」
微笑みを浮かべた壮年の男は、先日のオウレアス開城時、サシャに亡命をした紫波騎士団元副団長、リュアンサン・バークである。長身の彼の横には、あの日の茜色をした少年が、警戒心を覗かせつつも形ばかりの礼を取っていた。
「リュアン卿、それとイッダだったわね。ここでの暮らしは慣れましたか」
「ええ。もったいないほど快適です」
亡命者という立場上、剣を没収されて黒岩騎士の監視を常に受けているリュアンらは、決して快適に過ごしてはいないだろうと思えたが、淀みのない笑顔を見ればそれは杞憂だったのかとすら思える。
ただし、イッダの表情に混ざる複雑なものを見ればやはり、何か含みがあるようだ。気のせいかもしれないが、イッダは特にエレナ対して、強い感情を込めた視線を向けるようだった。ただの自意識過剰であれば良いのだが。
「普段からよくこちらへ?」
彼らとは議場で接する機会が多かったが、この宮殿で、こうして個人的に言葉を交わすのは初めてだった。社交辞令として訊いてみれば、リュアンは首を振った。
「いいえ。ここ数日天気が悪かったでしょう。ですから庭園に出るのも久しぶりです。もっと頻繁に訪れていれば、殿下に早くご挨拶ができていたかもしれませんね」
「お気になさらないでください。何か不自由はありませんか。あなたには二年前の日蝕の際、とてもお世話になりましたから、私としても何か恩返しができればと」
「滅相もない。この場所にご厄介になっているだけで、十分すぎるほどです。それにしても、もうあれから二年近く経つのですね……」
思いを馳せたリュアンに、エレナは小さく頷く。思えばあの時。日蝕の儀にてエレナが矢を射かけられた時から、平穏な毎日に終止符が打たれたようだった。
二年という期間は長いようでいて、過ぎてしまえば束の間のことにすら感じられる。この間、様々なことがあった。激動の毎日に追い立てられるようだ。
「……
ぽつりと言ったリュアン。今でもヴァンのことを思ってくれる人がいたことに心が温まる。
「ええ、ありがとうございます。彼は、私にはもったいない騎士でした」
何の話かわからないのだろうイッダが、黙ったまま身じろぎする。その目は相変らず警戒した小動物のようだった。
「よろしければ、慰霊碑までご一緒にいかがですか。星の宮の地下に、殉職した歴代の
「それは、光栄なお誘いですが……よろしいのですか。我々のような立場の者が」
「問題ございません。特に、立ち入りが制限されている場所ではありませんから」
ヴァンと知り合いであるリュアンには拒絶する理由がないだろうが、イッダはどうだろう。視線を向ければ、彼はやっと口を開いた。
「あなたの
「イッダ」
「構いません」
直接的な発言に、リュアンが窘めるがエレナはそれを制して、腰を屈めて少年と視線を合わせる。幼い子供の純粋な疑問だろう。目くじらを立てる必要はない。
「そうね、私が殺したようなものよ。遺体も出なかった」
「それなのに、よく平気でいられますね。……遺体を、探さないんですか」
「探したけれど、見つからないの。もう二年近くになるわ。探したとして、彼を特定できるものはきっとない」
「もし生きていたら、どうするんです」
イッダの無礼極まりない言動に、リュアンは困惑した様子だが、エレナは不思議と、この少年に不快感は覚えなかった。
「生きていたら、それ以上に嬉しいことなんてないわ。私たちは幼い頃から、二人で一つだったもの」
生きていたら。そうであればどんなに良いことか。それはもはや絶望的で、彼の死を過去のものとして受け入れている己の心を再確認して、驚きすら感じた。人はこうして、過ぎ去りし日々を思い出の一つにしていくのか。
「あなたも廟に来るでしょう。彼を紹介するわ。きっと喜ぶはず」
屈めた腰を戻しつつ深く考えずに言ったのだが、イッダは小さく「喜ぶもんか」と呟いたようだった。反抗期の少年の悪態の一つかと思ったのだが、イッダが数か月前までどこにいたのかを知っていれば、その発言は別の意味を持ってエレナの胸に落ち着いたただろう。
三人は朝露に濡れる草木の間を、ゆっくりと星の宮へ向かって進んだのだった。
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