10 束の間の回顧

 オウレアス王国南西部。アーヴェ川の川幅が広がり、水深が浅く水流が滞るこの場所は、岩波戦争時にも激戦区となった地域だ。奇しくも、幼き日のヴァンが母親と住んでいた町、シャーラエルダの近郊である。すでに懐かしさすら覚える、人の良さそうな老村長の顔が脳裏を過り、束の間思いを馳せた。


 ――新王が城を空けるってのはどういう心境なんだろうな。


 クロのぼやきに、現実に引き戻される。開戦から約一か月。当初は城にて足場を固めていたアヴィンが前線にやってきたのは、唐突なことだった。


 戦場と言えども、地面に穿たれた大蛇のように続く地割れを挟み、睨み合いを続けるだけの場所。後方に控えるのであれば、さほど危険はないだろうが、そもそも王位簒奪直後の王が、反対勢力を城に残し、こんな場所にやって来るとは。


「あいつの考えていることは良くわからない」

 ――お前まだ怒ってるのか、疑われたこと。

「疑われてるのは多分、今も変わらずだよ」

 ――その割に、素直に呼び出しに応じるんだな。

「憂鬱だけど、顔を合わせない訳にはいかないからね」


 ヴァンは溜息交じりに言って、兄が待つ天幕へと向かう。砂地に建てられたそれはひと際大きく、この陣の本拠地となっている場所だ。ヴァンはこの日、折をみて天幕を訪ねるようにと伝言を受けていた。


 時刻の指定はなかったので、手が空いた昼過ぎに訪れたのだが、先客があるようだ。天幕の端で話しているのか、微かに外に声が漏れている。内容までは聞き取れないのだが、何やら揉めているようだ。


 ――なんだなんだ。喧嘩か?


 血の気の多いクロが野次馬根性丸出しで言う。いや、剣に血が流れている訳ではないが。


「後にした方がいいかな」


 クロに告げるため呟いてから踵を返そうとした時、不意に垂れ幕が翻り、見慣れた姿が現れた。


「アリア」


 彼女はヴァンの姿に少し怯んだように脚を止め、それから一揖いちゆうをして足早に去る。アリアにしては珍しいことに、天幕を飛び出した瞬間の表情に、何か切ないものを感じたのは気のせいだろうか。


 ――ちっ。痴話喧嘩かよ。


 ヴァンは垂れ幕に手をかける。時期の悪い訪問かと躊躇いはしたが、いつでも良いと呼びつけたのは、アヴィンである。


「アヴィン。入っていいか」


 束の間の沈黙の後、いつもどおりの声が返って来る。


「……スヴァンか、よく来た。入るがいい」


 軍議にも利用している天幕の内部には、地図が広げられた四角い机と、予備の武器類が整然と並ぶ。机の横辺りに立つアヴィンが静かな目でこちらを見ていた。


 最後に言葉を交わしたのは、ヴァンやアリアがこの地に派遣される直前だった。疑いを持たれたこと、開戦を決定する軍議からも排除されたこと。さらには、ヴァンに何の相談もなく、イッダがとやらに駆り出されている現状にわだかまりを持ったまま別れていため、なんとも気まずい再会だ。


「久しいな」

「そうかな。たったの一か月だ」

「それでも激動のひと月だったはず。あの地割れはそなたの力だな。ご苦労だった」

「ああ……」


 そして沈黙。普段はやかましいクロも、言葉がない。こういう時こそ何か気の利いた会話案でも出してくれれば良いものを。ヴァンは仕方なく先んじて口を開いた。


「急に何しに来たんだ」

「様子を見に、な。そなたらの無事も気になったことだし」

「こんな戦場じゃあ、危険なことはないよ」

「ああそうだろう。しかし、あちらがこの状況を打開しようとするならば、そなたを排除しに来るのは明確。十分に気をつけるように」

「心配し過ぎだよ。どうやってここまで軍を進めるんだ」


 しかしアヴィンは、引き締まった表情を崩さない。


「無論、軍勢はやって来ないだろう。むしろ警戒すべきは少数精鋭の刺客だ」

「まさか。得体の知れない魔人の懐に飛び込んでくる奴がいる?」

「油断は禁物だ、スヴァン」


 まるで、刺客が来ることを確信しているかのような口ぶりに違和感を覚えるが、それをどのように表現すべきか思い当たらず、ヴァンは黙って机上の駒をもてあそぶ。戦略も何もない、ただの睨み合いの形に配置された駒の一つだ。


「まあそなたなら苦も無く返り討ちにできるだろうな。殺さず捕虜にしておいてくれ。サシャとの交渉材料にする」


 平然と血生臭いことを口にして、彼は無意識の癖か、首から皮紐につないだ黒い石がある辺りを衣服の上から撫でた。そのまま沈黙が訪れて、痺れを切らしたヴァンが口を開く。


「それで、僕には何の用。そんな忠告をしてくれるだけなら、使者にでも手紙を持たせればよかったはずだよね」

「つれないことを言うな。根に持っているのか、イッダを別の仕事に遣わせたこと」


 何もそれだけではないのだが。弟の苦い表情にさすがのアヴィンからも戸惑いが滲み出る。落ち着きなく石を撫でたと思ったら、諦めたように嘆息した。


「実は、アリアに用があったのだ」


 アヴィンはこちらの表情を窺ってから続ける。


「あれには、定期的に報告書を出すよう命じていたのだが、開戦後届かなくなってしまってな。それであれば事情を聞こうと城に呼びつけたのだが、回答もない。仕方なくこうして直接赴いたという事情だ」

 ――今話題の偽王オウレスが、女の尻を追っかけてるなんてな。


 そういうことではない気がしたが、クロには反論せず、首を傾ける。


「あのアリアが命令に背く? 別にここ数日、様子がおかしいところなんてなかったけど」

「ふむ。ならば私が嫌われたようだな」

「何かしたの」


 アヴィンは肩を竦めて答えない。二人の間にはヴァンの知らぬ絆があるようだから、何やら複雑な事情でもあるのだろう。


 ――あれだろ、王になったから、お前とはもう付き合えないって、ボロ布みたいに捨てたんだろ。


 投げやりな発言だったが、可能性は否定はできない。それでも、あのアリアが痴情のもつれで職務放棄するとは想像し難い。アヴィンの方も、別の理由を想定しているようだ。


「そもそも剣守には、波の王オウレスが彼らの主神をその意に反することに使わないか、監視をする役目がある。今は彼女の神がすぐ近くにいるから、私に構っている余裕などないのだろう」

「そんな理由なのかな? アヴィンとアリアは、王太子時代からの仲だったよね」


 不意を突かれた様子でアヴィンは眉を上げる。


「ああ、そうだ。そなたには話していなかったか」

「詳しくは。でも二年近く一緒にいたんだ。何となく話の流れから知っているくらいかな」


 アリアは剣守として、波の王オウレスに仕える巫女。アヴィンが城を落ち延びる前から王宮に出入りし、陥落後にはアヴィンと共に雌伏の時を過ごした。その程度のことは理解していたが、二人が共にした苦楽や、詳しい事情は知らない。


「アリアが反抗するなんて。正直普段は、感情なんてないんじゃないかというくらい、冷静なのに」


 その率直な言葉に、アヴィンは笑った。


「そう見えるか」

「アヴィンはアリアの感情がわかるの」

「まあ、幼少からの付き合いだからな。それに、昔はああではなかった。彼女が泣くことも笑うこともなくなったのは、城を落ち延びた後、正式に剣守の任に就いてからだ」


 どこか遠い目をしたアヴィンの様子を意外に思いながらも、ヴァンはやや躊躇してから言う。


「それは、アリアの弟さんが関係してる?」

「アリアから聞いたのか」

「少しだけ、ね」


 里での出来事を思い起こせば、クロに身体を乗っ取られかけたり、狼に腕を切り裂かれたりした不快な感覚ばかりが蘇り、出来れば思い出したくもないのだが。里の墓地で、彫像のような静かな佇まいで墓石に祈りを捧げていたアリアの姿は、鮮明に脳裏に焼き付いている。


「我々が反体制勢力の旗頭として擁立された時、彼女はまだ剣守ではなかった。双子の弟と二人でやっと一人前の剣守とされていたのだ」


 ヴァンは頷く、彼女らの信仰では双子は魂を共有している。正式な剣守になるために、弟をその手で殺めたのだと、彼女は言っていた。


「早かれ遅かれ、こうなる運命だった。……いや、違うな。父王が処刑され、国が変わるのであれば、混乱に乗じて二人を逃がすことなど造作なかったはず。それをしなかったのは私の負うべき責だ」


 アヴィンは弟の表情を覗いてから、続ける。


「彼女の弟は、姉を生かすことだけを考えていた。しかしそれは彼らの教義に背くこと。彼らの聖典に記された教えは一つ。『戦え』だ。二人で逃げても、いつ逃亡が露見するかと思えば、陽光の下を胸を張って歩くことなどできない。あの里は粘着質だから、忘れた頃に裏切り者の剣守を始末しに来るだろう。最終的に彼は、自ら姉に命を捧げた」


 以降、アリアは感情に乏しくなったのだと、アヴィン語った。己の分身であった双子の弟を殺し生きながらえた人生を、彼女の心は受け止めることができなかったのだ。感情の起伏に制御をかけるのは、自己防衛の一種なのだろう。


「勝手に語り過ぎたか。後の詳しいことは本人から聞いてくれ。しかし最近は、少しずつ表情が戻って来たようだな。少なくとも、怒った顔は良く見せてくれるようになった」


 自嘲気味に、しかしいつになく柔らかく微笑む兄を、意外な心持ちで見つめる。クロも同じ感想らしい。


 ――こいつ、本当にあの姉ちゃんに惚れているのか。


 正直、二人の関係は純粋な愛とは無縁の、もっと殺伐としたものだと思っていたのだが。ヴァンの表情に気づき、アヴィンは視線を逸らす。照れ隠しのようにも見え、兄への不信感は変わらないものの、どこか親近感を覚えたのも確かだ。


「スヴァン、そなたは……」


 何を言おうとしたのか、聞く機会はなかった。不意に、角笛の音が響き、馬蹄が土を蹴る振動が天幕を揺らした。


「陛下!」

「入れ。何事だ」


 一転、王の顔になったアヴィンが、鋭く命じる。垂れ幕を引きちぎらんばかりに掻き分けて、紫の隊服の伝令がやって来る。形式ばかりの敬礼の後、彼は叫ぶように言った。


「申し上げます! 敵が……進軍しています!」

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