9 婚礼と噂
お忍びの馬車が、王宮に隣接するアレスタ寺院に続々と集う。
聖都の住民は、寺院の中で何が行われているのかと口々に囁き合ったものだが、昼過ぎに鐘が鳴り、王太女と公爵令息の姿を目にした者がことを察して話を拡げると、数日後には王女の婚礼がほとんど公然の事実のように、大衆新聞にて報じられた。
そのこと自体に不都合はない。折を見て公表すべきことであるし、この婚姻を急いだ理由の一つが、
だがエレナには一つ気になることがあった。おしゃべりな侍女らが、この記事を話題にひそひそと、時には含み笑いをしながら噂話に花を咲かせていたのだ。
サーラや近辺の侍女にそれとなく探りを入れるも、明確な回答はなく、何やら含みある顔をするだけ。侍女長であるメリッサならばその理由を知っているだろうが、問うてみてもやはり回答はない。それが原因だろうが後日、噂好きな侍女たちがメリッサから大目玉をくらったと聞いた。
メリッサに新聞の調達をそれとなく頼んだがやんわりと断られ、仕方なく職権乱用まがいにハーヴェルを呼び寄せて何とか手に入れたその紙面を見て、エレナは笑いをかみ殺すことになる。
「『アレスタ寺院、その鐘は誰がために――秘密の婚礼、戦勝祈念、健康祈願の向きもあり』ですって」
紙面を斜め読みして以降、笑いが止まらない。押し殺そうとしても、どうにも収まらない笑い声を隠すため、新聞で顔を覆うようにしているエレナに、ワルターは冷ややかな視線を向けた。その様子に、部屋の隅でカーテンを開き朝の光を取り入れている侍女の背中も、小刻みに震えているようだった。
「あなたはいつまで笑えば気が済むのだろうね」
「ごめんなさい。だってこれ」
敢えて読み上げるのもかわいそうだ。エレナは再度文字を目でなぞる。
『……もしくは、贅沢病に悩むエルダス伯爵の快癒祈願か。近頃目に見えてふくよかになり……そんな姿も熊のようで可愛いと、社交界では人気の的』。なんと、熊とは。
「僕はまだそんな病を患うような歳ではないぞ。いらぬところに脂肪が付いたのは……否定はできないが」
「別にふくよかなんかじゃありませんよ。ただ、以前よりは、というだけでしょう」
励ましたのかどうかも怪しい言葉に、ワルターはエレナの手から新聞を奪う。軽く流し読んでから、それを投げ捨てるに近い動作で、小卓に置いた。
「ここの記者は我が一族が嫌いと見受けられるな。少し前にも父上が不倫だのなんだのと、根も葉もない戯言を書き連ねていた」
苦々しく吐き捨てて、彼はソファーに腰掛けた。
「いつか営業許可を取り消してやろう。了承してくれますね、未来の女王陛下?」
「どうでしょう。あなたが独断でやってください。そんなしょうもないことで暴君だとか言われたくありませんから」
「僕がやっても、あなたに汚名がかかるのは同じだ。覚悟を決めてもらおう」
肩を怒らせながら、冗談とも本気ともつかぬことを言ってみてから、ワルターはやや表情を引き締めて、今度はお堅い方の新聞を手に取った。「聖サシャ週報」という、国営の週刊紙だ。
エレナはその紙面を覗き込み、表情を曇らせた。戦況についての記事が一面を飾っている。
戦線布告からもう、ひと月近くが経過していた。サシャとオウレアスの国境には、アーヴェ川が蛇行しつつ西から東に流れている。国境付近は流れが急で、水深を鑑みても、騎兵が渡るには適していない。
無謀にも強行突破しようものなら、足場の悪い中、敵の弓兵の集中攻撃を浴びることになる。自ずと、両軍が相対する場所は、川の切れ目、水量の少ない場所となる。激戦の舞台はいつの時代も変わらない。岩波戦争時、戦火に焼かれた町や村は、地理的な事情により此度も苦難に追い込まれるだろう。
「動きはないのですか」
エレナの問いに、ワルターは頷く。
「ああ、両陣営の間には相変わらず文字通りの深い溝があり、双方睨み合うだけだという。どうやら北は、城を開城せしめた時と同様、我々が降伏するか、痺れを切らして交渉を持ち出すのを待っているようだ」
「兵力に自信がないのでしょうか」
「そうだろうね。無理もない。前回の戦いの際には惨敗しているんだ。その後はサシャの属国だろう。国力の差は明らかだ」
「だからこその青い目の魔人であり、深い溝、ですか」
この場合の溝とは心理的な話などではなく、もちろん物質的なもの。文字通り、例の魔人の仕業で、馬が通れぬような淵がぽっかりと出来上がっているらしいのだ。
「イアンたちは、上手くやれるでしょうか」
無論、青い目の魔人暗殺の件である。ワルターならば、何かしらの見込みを述べてくれると思ったのだが。期待に反し、彼は険しい目つきで紙面を眺めるだけだ。眼球が動いていない。ぼんやりと焦点も合わせず視線を遣っているだけのようだが、その脳内では凄まじい速度で思考が練られているだろう。
「大丈夫?」
しばらくして声をかけてみると、彼は思い出したようにこちらに目を向ける。
「すまない。少し考え事を」
「いいえ、気にしないでください」
エレナは首を振って、卓の中央に置かれた可愛らしい砂糖菓子を一つ摘み手渡す。反射的に受け取って、ワルターは大袈裟に眉を上げた。
「これ以上僕を熊にするつもりか」
「何言ってるんです。頭を使うと甘いものが食べたくなるでしょう。さあどうぞ」
確かに、文官であるワルターは武官とは体つきが異なるが、体形を特別気にする必要があるほどとは思えなかった。
悪気なく菓子を勧めたことは彼もわかっているらしく、せっかく渡されたものを拒む必要もないだろうと、包みを解いて口に入れた。するとさすがは王宮に献上される菓子。本来は甘味好きな彼は、手が止まらなくなってしまったようだ。エレナもこの素朴な砂糖菓子の、一口含むなり広がる甘味と香ばしさは良く知っている。
朝食前だというのに、気を利かせて侍女が紅茶を持って来た。ワルターは考え込むとしばらくそのままなので、仕方なくエレナは向いに座り、彼が次々と菓子を口に放り込む様子を、止めるでもなく眺めたのだった。
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