8 父娘


 婚礼の準備は急ぎ進んだ。開戦を控える緊迫した状況下、慶事の周知を大々的に行うような時期ではない。


 本来、王位継承者の婚儀ともなれば、王宮では三日三晩宴が続き、国民に向けては祝典を催し、国中が祝いの空気に包まれるものなのだが。さすがにそのような浮かれたことはできず、ただ粛々しゅくしゅくと、アレスタ寺院での素朴な挙式を行う予定だった。


 質素に行うのであれば、準備期間も不要。王族の婚礼には異例なことに、それが決まってからわずか一週間後、寺院の鐘が鳴らされることとなった。


 すでに議会承認済みの婚姻であったため、形式通りに王の御前ごぜんで報告を済ませ、慣例通り星の神殿にて宵の刻に星の女神セレイアへと祈りを捧げた翌日、寺院にて岩の神サレアの御前で挙式となる予定だ。


 それまでの間、情勢にも変化があった。王太女の事情などもちろん知る由もない北方の偽王オウレスが、国境付近の町に布陣し、南方に睨みをきかせているとのこと。


 黒岩騎士団が派遣され、国境は一触即発の緊迫感だ。エレナの側近であるがゆえに、戦場に赴く義務のないイアンが志願をしてまで戦地に向かうのを、涙を呑んで見送った。


「式の際に側でお守りすることができないのが、残念です」


 そう言ってくれるのならば、わざわざ危険な場所になんて行かないで、ずっと王宮にいてほしいと思ったものだが、彼の意思は彼だけのもの。禁じてしまうことは容易だが、イアンの気持ちを思えば、束縛をすることはできなかった。


 さて、婚礼の前夜、エレナは謁見室にいた。父娘とはいえ、長らく主従として暮らしてきたものだから、親子としてどのように振舞うべきか、互いに様子を窺いながらの面談である。場所が場所なだけあり、より一層堅苦しい雰囲気が出てしまう。


「陛下。明日、アレスタ寺院に向かいます」

「そうか」


 岩の王サレアスの言葉は少ない。常日頃このような様子だったが、今日はより顕著である。この無愛想な男と接する時、エレナの目にはいつも、父ではなく王としてしか映らない。ところが、これまでの人生を振り返ってみれば、やはり彼は紛れもなく父親だった。


 星の姫セレイリが生んだ異例の子を殺さず、養子にも出さず、手元に置いた。五年ほど前の水害時には、誰もが生贄の祭祀が行われると思ったものだが、それも拒絶した。全ては、我が子のためだったということか。


 頭では、父王に対して感謝をし、主従の枠を超えた情があることも理解しているのだが。婚儀を前に、父に何を語ればよいのか見当もつかない。そもそも、全てが早急に過ぎ、明日寺院に向かうことすら、現実味を帯びないのだ。


 父娘二人きりの謁見室に、沈黙の帳が下りる。普通の娘であれば、何と言うだろう。町娘であれば、慈しみ育ててくれた礼を述べるだろうか。異国に嫁ぐ令嬢であれば、今生の別れを思い、涙を流すだろう。それでは、父娘としての思い出が乏しく、明日からもこの宮で暮らすエレナはどう振る舞えば良いだろう。考えはしたが答えが出ず、早々に退室をすることに決めた。


「それでは陛下、おやすみなさい」

「エレナ」


 略式の礼をして背中を向けた娘に、岩の王サレアスは低い声で呼びかけた。驚き、肩越しに振り返った顔は間抜けだっただろうか。過去、名前で呼ばれたことなど、ほとんどなかった。イーサンが亡くなってから、王の面前でエレナを名で呼ぶ側近もいなかったため、ひょっとすると娘の名前など忘れてしまったのではないかと思ったほどだ。


 エレナは驚きを抑え込み、身体を王に向け直す。


「いかがされましたか」


 岩の王サレアスは静かな眼差しでこちらを見下ろし、暫し言葉を探してから、口を開く。


「レイザ公爵の子息は、優秀な男だ。ゆくゆくはこの玉座をそなたに明け渡すことになるが、心配には及ばない。彼が、そなたを導くだろう」

「ええ。私もそう思います」

「……そなたは彼から距離を置きがちだと聞いたが」


 おそらく、イアンやメリッサからそれとなく聞いていたのだろうが、知らぬところで父に告げ口をされていたと知れば、良い気はしない。それでも、皆がエレナを案じてくれていたが故と思えば、不思議と怒りは湧かなかった。


「ええ、以前は。ですが、これが最善。そうでしょう。それにあの方は、思ったよりも面白い方です」

「気に入ったか」

「……私にはもったいない方です」


 この婚姻を推し進めた勢力に、王も加担しているはずだった。それなのに、何を今更確認しているのだろう。それが、父としての懸念であったのだと気づくまで、さほど時間は必要なかった。


「後悔はないか」

「ございません」

「本当か」

「一体何をお聞きになりたいのですか。今日は陛下らしくありませんね」


 不器用な父に向けて小さく笑った様子に、王の硬い頬が少し和らいだようだった。それから唐突に、想定外の言葉が飛び出す。


「余は、そなたの母を愛していた」


 咄嗟に反応できず、王の顔を凝視する。愛などという言葉、この男の口から発せられることになるとは思いもよらなかった。いや、驚くのはそこではないか。


「母を、ですか」

「エアリアとは、幼い頃から共に育った仲だ」


 それは以前から耳にしていた。ちょうど、エレナがイーサンと共に育ったように、エアリア岩の王は幼少期を仲睦まじくこの王宮で過ごしたのだろう。


「王妃……イーサンの母が早世し数年。絶望の淵にいた余の心を救ってくれたのが、そなたの母だった。女神に仕えながらも、己の子を熱望していたエアリアは余を受け入れたが、あれの心に他の者がいることは、理解していた。それでも余は、エアリアを愛した」

「なぜそのような話を私に」


 両親の、生々しさすら感じさせる馴れ初めを平穏な心で聞く事ができる娘は、そうそういないだろう。岩の王サレアスは、そういった機微に疎いようだ。


「あれの黄金色の瞳が余を映す時も、余を通して別の者を見ていただろうことは知っていた。なぜ余を受け入れるのか問うた時も、満足な答えなどなく、ただだと……それでも、エアリアを恨んだことはない」

「……それほどのお気持ちがあったのなら、母の命を奪った私を恨んだでしょう」

「何もわからぬ赤子を憎むほど狭い心はしていない。しかし、星の騎士ハーヴェルが止めなければ、余はそなたを孤児院に送っていただろうとも思う」


 珍しく、遠い目で自嘲気味の笑みを見せてから、王はエレナに視線を戻す。


「今でも時折、そなたはどこか別の家に引き取られた方が、幸せだったのではないかと感じることもある。星の姫セレイリ、王太女。そのような肩書よりも、清貧で自由な暮らしの方が、そなたには似合うのかもしれない。そう知りながらも、結局は娘を政治の道具にしてしまう。父を許せとは言わぬが……」

「陛下」


 呼びかければ、父王は静かな眼差しでこちらを見つめる。言わんとすることが急速に腹落ちし、エレナは父を安堵させるため、微笑んだ。


「私には不満などありません。陛下が、私のために様々な無理をしてくださったことも存じ上げております。陛下がいらっしゃらなければ、私はとうに死んでいたどころか、この世に生まれてすらいません。だから、そのようなお顔をなさらないでください。お父様」


 岩の王サレアスが微かに眉を上げた。不快だったのかと束の間心配になるが視線を逸らして黙り込んだ様子を見るに、杞憂だったようだ。エレナは少しだけ打ち解けた心持ちで、父の視線の先に顔を滑り込ませた。


「お願いがあります」

「……どのような」


 どこかでずっと胸にわだかまっていたものが、一つずつ解れていくように、心が安らぐ。エレナは、ずっと気後れして言えなかった願いを、唇に乗せた。


「もっと聞かせてください。お母さんのこと……お父様のことも」


 不器用な頷きが返ってくる。この晩、謁見室の扉は暫く開くことはなかった。

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