6 隣に咲く①


 使臣がオウレアス王国から聖サシャ王国に帰還して数日。南方岩の宮にて、議会は武力行使の要否について紛糾しているようだった。


 王太女と言えども、所詮は政治の何たるかも知らぬ、ただのお飾り。エレナは議場には入らず、岩の王サレアスの名代としての雑務に忙殺されていた。といってもやはり、できることは少なく、父王の目通しが済んだ、些細な内容の書面にひたすら署名をするだけである。


 エレナが理解する必要のある内容ではなく、岩の王サレアスが確認の印をつけた紙に無心になってペンを走らせるだけの単純作業に辟易するが、このような緊迫した状況下、呑気な心情で作業ができる環境は、恵まれているといえた。この日も議会は、夕刻を過ぎても終結しないようだった。窓の外を見遣れば、冬の短い昼は、終わりを迎える時刻だった。


星の姫セレイリ


 先ほどまで暖炉の火を搔いていた侍女サーラが、作業のため腕まくりをした格好のまま慌ただしく呼んだので、エレナはペンを休める。


「どうかした」

「イアン卿がお戻りです」

「入ってもらって」


 言うや否や、執務室の扉が開く。見慣れた銀髪の騎士が、つま先を沓摺くつずりに揃えて律儀に敬礼をする。


「イアン。議会はどうだったの」


 エレナは革張りの椅子から腰を上げて、身を乗り出した。


 通常であれば、イアンのような若い黒岩騎士が議場に呼ばれることなどないのだが、この日は例によって、青い目の魔人暗殺に関する協議であったらしく、腕の立つ騎士が呼ばれ、北からの亡命者二名を交えて議論を交わしていたようだ。


 イアンはエレナの勢いに押されたように、言葉を探して黙り込む。答えにくい内容と言ったところか。彼の発言を待とうと一旦腰を下ろした時、イアンの横から見慣れた姿が現れた。


「私からお話しましょう」

「エルダス卿」


 普段と変わらぬ安定感のある微笑みだが、どこか疲労が見え隠れしている。エルダス伯爵であるワルターも、連日の議会に参加をしていた。ワルターはイアンに何やら目配せをしてから、執務室の灰銀色の絨毯を踏む。


「殿下、食事の前に、ご一緒していただきたい場所が」


 改まった様子に、エレナはワルターの顔を観察した。普段は気にならない程度に刻まれた目尻の皺が深まり、心なしか、肌も荒れている。隙のない好青年と思っていた男の常にない様子に、この数日、この国がいかに重大な岐路に立たされているか、知れる思いだった。


「まだ公務がおありでしたら、お待ちしておりますが」

「いいえ、私は問題ありません」


 どう考えても、エレナよりもワルターの方がずっと多忙である。気を遣わせてしまい申し訳なく思いつつ、厚手のショールを差し出してくれたサーラに礼を述べてから、ワルターの腕を取った。イアンがその後ろを静かに随行する。


 向かったのは、庭園が見下ろせる、岩の宮のバルコニーであった。サシャは豪雪の国ではないものの、この季節、薄っすらと雪が積もることもある。月のない夜ではあるが、建物から漏れ出る明かりに照らされ、純白の薄雪が僅かに朱を帯びて、裸の木々を彩っていた。


 階下から吹き上げる寒風にショールを首元で掻き合わせる。「寒いですね」と言ったワルターの鼻先がやや赤らんでいて、エレナは思わず小さく笑った。


「寒さはお嫌いでしょう。どうしてここに?」

「覚えておいででしょうか。初めてあなたと二人きりでお話した場所です。あの豊穣祭の日」


 煌びやかな婦人のドレスと宝石の色彩、優雅な音楽の洪水。そこから逃げるようにこのバルコニーにやってきたエレナは、同じように喧噪から距離を置いたワルターと居合わせた。


 それも、彼の一族であるレイザ公爵家が偶然を装うため、周到に手配した結果だったのかもしれない。この場所で、ワルターの機知に富む話術に引き込まれたのは、もうだいぶ前のことのように感じられる。


「ええ、覚えています」

「あなたと二人になれる場所なんて、他にはほとんどありません。近頃は常に侍従やら護衛やらに囲まれて、気詰まりでしょうね」

「ただの星の姫セレイリだった頃に比べれば、一人で過ごす時間は減りました」

「それは大変だ。私がまたこうやって、あなたをあの第四執務室牢獄から連れ出して差し上げます」


 エレナは笑みで答え、ワルターの緑色の瞳を覗き込んだ。先日、互いの心の内を忌憚なく吐露し合ってからは、彼との間には何か盟友のような、強い親近感のようなものが芽生えていた。こうして二人っきりで見つめ合っていても、何の居心地の悪さも感じない。以前なら、バルコニーの窓の向こうでこちらに半身だけ向けて立っているイアンを、側に呼び寄せたかもしれない。


 真っ直ぐな視線に、意外にもワルターは少したじろいだようだった。


「何か、おかしなところでも?」

「いいえ。ただ、不思議だと思って」

「何のことです」


 エレナはただ首を横に振って誤魔化した。


「それより、議会はいかがでした。あなたが直々に内容を教えてくれるのかしら」


 本題に入ると、ワルターの表情は引き締まる。室内から溢れる光が、彼の顔に陰を落としていた。


「開戦は、避けられない状況です」


 状況的に覚悟していたこととはいえ、いざ明言されると、緊張に背筋が伸びる。


「戦乱に乗じて精鋭を送り、青い目の魔人を暗殺する方向で進むでしょう。イアン卿もそれに志願しています」

「そうですか」

「これから先は動乱の時期です。あなたや私を取り巻く状況も大きく変わるでしょう」

「閣下も戦場に?」


 聡いワルターはエレナの声音に含まれる不安を感じ取ったようだった。目尻の皺を深め、愛情深い笑みを浮かべて、ゆっくりと首を振る。


「まさか。私も含め、我が家は文官一族です。騎士団の面々のように颯爽と馬を駆って矢を射ることなどできません」


 その言葉に、やや肩の力を抜いたエレナを見て、ワルターは束の間口を閉ざす。王太子と星の騎士セレスダの死をきっかけに、親密な者との離別に常に怯えているということは、とうに気づかれていたようだ。彼は真摯な眼差しで、エレナの黄金色の瞳を捉えた。互いの瞳の中に互いの姿を見ながら、ワルターは言う。


「だから恐れないでください。私は決してあなたの側から去ることはありません。あなたが私の手を離すまで、決して」


 彼の言葉が胸に刺さる。言葉にならない恐怖を払拭してくれる、その優しさが心を温める。


「閣下、私は」


 何を言おうとしたのか自分でもわからない。もしかしたら、続きなど用意していなかったのかもしれない。それすらも察したように、ワルターはおもむろにエレナの手を取った。


「どうか、私と一生を過ごしていただけませんか。あなたの、伴侶として」


 吹き上げる風の音が、止まったように感じた。

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