21 南方巷談
その後エレナは案の定、高熱を出して寝込んでしまう。晩秋の冷え込みの中、雨に打たれ続ければ無理もない。その間、雨は降ったり止んだりを繰り返したが、あの日から三日後を最後に、暗雲は国土から海に抜けていったらしい。
ほどなくして河川の水量が標準値に戻り、避難をしていた住民が故郷に戻る頃になると、すっかり祭祀の話は立ち消えていた。
ヴァンとしては一旦胸を撫で下ろしたものの、いつか必ずまた訪れるその日に戦々恐々して過ごすことになってしまった。しかしそれもまた、
「
自分を思ってくれる誰かを遺して自ら死に向かうことは、とてつもなく残酷なこと。この時から、ヴァンは心の
※
――だからお前も、南に帰った時には劇場に……、っておい、聞いてたか?
クロの言葉に、意識が現実に引き戻される。ヴァンは読むともなしにぼんやりと眺めていた紙面から顔を上げて、それを机の上に放る。途端に、クロが
――おい! まだ読んでたのに。
「あ、ごめんごめん。どの辺りを読んでたっけ」
――俺の話聞いてなかったな。ほら、そこだよ。『人気悲劇女優、略奪愛の果ては喜劇か』。
「しょうもない記事」
――お前もその辺ずっと見てただろうが。
物思いに耽っていただけで、文字を追っていた訳ではないのだが確かにその近辺を眺めていたかもしれない。クロのためにもう一度娯楽新聞を手に取り、ヴァンは記事を斜め読みした。
どうやら、聖サシャ王国で人気の舞台女優が妻帯者と不倫をし、舞台降板沙汰になっているらしい。相手は王国の高位貴族らしく、さすがに家名は隠されているものの、よくよく読んでみれば、特定も容易。敢えて想像を煽るような文脈にしているのだろうが、これでは社交界の笑い者だ。
――どれ、『相手はなんと、宮廷高官を歴任するあの〇〇家当主』……そんなの数えるほどしかねえだろ。酷いなこれ。
「まあ、真偽もわからない噂話だし、大勢に影響はないよ」
言ってから、記事の文末に目を遣り、懐かしい文字を見つけ、見なければ良かったと後悔した。「
――『父親の不祥事で、
「レイザ公爵」
――ああそれ。よく覚えてるな。
「南にいた時はよく顔を合わせていたから」
短く言って、今度こそ新聞を机に置いたヴァンに、クロは容赦ない。
――拗ねるなよ。
「拗ねてないよ」
言いつつも口調に棘が含まれてしまい、自分の女々しさに嫌気が差す。それをクロに茶化されると、一層認めがたい。
エレナは
――南も色々と大変そうだからな。王太子の体調も良くないようだし。
「それも娯楽新聞の記事じゃないか」
――だからさっきから言ってるだろ。検閲されてるお堅い新聞は役に立たないんだよ。こういう俗っぽい新聞が案外でかいスクープをだな。
と、不意に書斎の扉が動いたものだから、クロが言葉を切る。軋んだ音を立てて開いた扉から、見慣れた兄の姿が現れる。室内に誰かいるとは思わなかったのだろう、何の前触れもなく扉を開いてしまったことをやや気まずそうにしながら、彼は言った。
「スヴァン、ここにいたとは」
「アヴィン」
ヴァンが深い意味もなく呼びかけると、アヴィンは手にしていた便箋を自然な所作で懐に入れ、書斎の革張りの椅子に腰掛けた。
「イッダが探していたぞ。急に懐かれたようだな」
ヴァンは肩を竦める。確かに里での一件以来、イッダの態度が軟化したようではあるのだが、相変わらず憎まれ口を浴びせてくる反抗期の少年に、懐かれているとは到底思えない。
「何か目新しい情報はあったか」
「いや、いつも通りだ」
ヴァンのすぐ側に無造作に積まれた新聞たちを見て言ったのだろう。社交辞令で聞いたようなものだったらしく、弟の回答に何度か頷いただけで、アヴィンは自身の仕事に取り掛かる。
ペンをインクに浸し、傍らから取り寄せた紙に何やら書き連ね始めた。この地で使われる文字とは違うようで、何と書かれているのかはわからない。
「何かあったの」
「そろそろ動きがありそうだから、首都のアリアに次の指示を」
「動きって?」
ヴァンが問うと、アヴィンはペンを滑らせる手を止めて、顔を上げた。こちらの表情を窺うような視線で彼は言った。
「サシャの王太子が、もう長くないようだ」
咄嗟に言葉が出ない。イーサンの怜悧な印象の容貌と、それに似合わぬほどの温厚な気性を思い浮かべ、胸に重い物がのしかかった。
娯楽新聞曰く、王太子は脚に怪我を負って以降、宮廷行事への参加もめっきり減り、心を病んでいるという。精神の病は次第に身体をも蝕み、近頃は自室に閉じこもってただ枯れ木のように命が尽きるのを待っている状況だという。
どこまでが真実か、わかったものではないが、少なくとも王太子の近況に触れもしない、「きちんとした良識のある新聞」よりも、現実に近い記事を掲載しているのだろう。クロの発言通りであることが不服ではあるが。
ヴァンは、自身の言葉を静かに待っているアヴィンの藍色の瞳を見つめ返してから、視線を逸らす。
「そうか」
イーサンをこのような状態に陥れたのは、アヴィンであり、この組織だ。そして、この環境に馴染みつつあるヴァンもきっと、イーサンや聖サシャ王家の面々からすれば、同じように憎むべき裏切者であるのだろう。
目的のためならば、どのような汚名でも浴びてみせる決意はあるものの、ふとした時に感じる
アヴィンは弟の様子を押し殺した表情で眺めてから、再びペンを滑らせた。そのまま、顔を上げずに低く言った。
「王太子に何かあれば、サシャはオウレアスの内乱になど構っている余裕がなくなるだろう。それが好機。その機会に、一気に畳みかける。……
その機会はきっと、遠くない未来に訪れるだろう。
第三幕 終
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