20 雨の記憶②
回廊を遠回りするのが
全身に、これまで感じたことがないほどの怒りが満ちていた。それは、真実を隠そうとしたエレナや、おそらく彼女から口止めされていたのだろう周囲の大人たちへの強い怒りであったが、最も腹立たしいのは、エレナの葛藤に気づけなかった己自身だ。
踵が泥を跳ね飛ばし、服の裾が茶色く変色したが気に留めない。そのまま星の宮に向かって一直線に進んだヴァンの目に、あるはずのない姿が映る。雨で視界が霞んだために見えた幻覚かと錯覚したのだが、目を拳で擦ってみても消えないそれは、実在のものらしかった。
庭園の端、地下水道の横にある、ヴァンたちの秘密基地。忘れもしないその場所に、亜麻色の髪の少女が佇んでいた。雨に打たれるままのその姿に、急速に心が冷える。
近づいて横顔を眺めれば、唇を軽く噛み締めたような表情でぼんやりとしている。頬を流れる雨水と相まって、泣いているのではないかと思ったほどだ。実際のところは分からないが、ヴァンは躊躇いがちに声をかけた。
「エレナ?」
呼ばれて、彼女は弾かれたように顔を上げる。エレナの方もヴァンを幻覚だと思ったのかもしれない。
「何やってるの、ずぶ濡れよ」
「それは僕の台詞だよ」
エレナはまだ上の空の様子で、結わずに下ろしたままの長い髪を握った。指の間から水が滴るほど、それは雨水を吸っていた。
「ああ、そうね」
「風邪ひくよ」
言っても、エレナは小さく首を横に振っただけで、反応が薄い。仕方なく、半ば強引にその手を握り、庭園の中央で枝葉を広げる巨樹の陰に移動をした。木の葉に遮られ雨粒の数は減少するが、一粒一粒が大きくなり、脳天に当たればちょっとした衝撃を感じる。それでも、豪雨に晒され続けるよりは良いだろう。
「こんな雨の中、何をやってたんだ」
「ちょっと、考えごとを」
「部屋でしたら?」
簡潔な正論に、エレナは口を開いたり閉じたりして、言葉を選ぶような仕草をしてからやっと答えた。
「一人になりたかったの」
常に誰かが身辺に付き従う
姿を消すのであれば、庭園で雨に打たれているのではなく王宮の外に逃げれば良いのに、彼女はそうしなかったのか。これから命を奪われるかもしれないというのに。そのいじらしいほどの姿に、気づけば、許されるはずのない言葉が飛び出していた。
「逃げよう」
エレナの視線が、こちらを向く。何を言っているのか、と怪訝そうな眼差しだ。己の口を突いて出た言葉に、ヴァン自身も驚いたが、それは止まらない。
「一緒に逃げよう。こんな雨のために、君が犠牲になることはない」
黄金色の瞳が揺れた。
「知っているの?」
「さっき知った。どうして隠したんだ。僕はそんなに信頼できない?」
「違う。ずっと知ってると思ってたから、伝える機会がなくて」
そう言われてしまえば返す言葉もないが、周囲まで口留めしたのはいくら何でも酷いじゃないか。エレナもそれは承知の上のようで、呟くような謝罪が漏れる。一番辛いのはエレナだろうに。ヴァンは溜息を吐いた。
「いや、君を責めたいわけじゃないんだ。でも、こんな茶番に付き合う必要はないよ」
「茶番じゃないわ」
思わぬ強い答えが返ってきて、エレナの顔を見つめる。寒さからか、恐怖からか、彼女の唇は微かに震えていた。
「茶番なんかじゃない。歴代の
彼女は奔放だけれど、自身の使命には忠実だった。それは自らの命を差し出せという理不尽な命令に対してすら、変わらないのか。
「
「それが
吐き捨てた声は、意図したよりもずっと冷たかった。それでもエレナは真っすぐな視線を逸らさない。
「ええ、そう。でもその任を果たせなかった
「だから、娘の君がしっかりとお役目を果たすんだって、そういうこと?」
顎を引いたエレナに、知れず冷たい視線を向けてしまう。
「馬鹿馬鹿しい。誰が自分の子供にそんな残酷なことをさせたがるんだ。君は自分の頭で考えず、ただ周りに言われた通り、それが運命だって思い込んでいるだけ」
言葉は歯止めなく、濁流のように溢れ出す。
「君は、本当は何も持っていない。一体何が、君の自由になる? 自分の命すら、自由にできないのに」
エレナが唇を噛み、震えている。遠雷が
その段になって、急に頭が冷えた。一介の騎士見習いである自分ごときに、どうして他人の生き方に意見することができるだろうか。
エレナは彼女を縛る教えに忠実だが、ヴァンはそれに従わない。彼女にとってヴァンは、ただの騎士でしかないのであれば、こんな越権行為、到底その胸に届きやしないのだろう。
そう思うと、胸が締め付けられ、呼吸が妨げられる。彼女の命が、心が、この指の間から雨水のように零れ落ちていく。それがどうしようもなく苦しく、言葉すら出ない。
ああ、
それはどんな情か。主君への思慕か、家族同然の友人への親愛の情か、幼い初恋か。どれも正しいようで、全てどこかずれているような気がする。幼いヴァンには、適切な表現ができぬほど、複雑な感情。ほとんど執着のようなものか。
それでも一つ確かなのは、彼女のいない世界など、想像もできないということ。この気持ちだけは、どうしても伝えたいと思った。
「……ごめん、全部僕の押し付けだ。でも、君は僕の世界を照らしてくれた人だから。急にこんな……」
冷静な頭であれば到底言えぬような赤面ものの告白も、エレナの純真な瞳を前にすれば、感情の吐露は止まらない。
「あの時、君に出会わなかったら、僕はきっとまだ、何の目的もなくただ毎日を過ごしていた。友人もなく、ただ生きるだけの日々だ。いや、もう死んでたかも」
少し笑って見せたが、エレナの頬は緩まない。寒さに紫がかった唇が、僅かに開く。
「今は? 今も辛いでしょう」
「辛いよ。でも、君に選ばれたことを、後悔なんてしない。僕の心を救ってくれた君を、ずっと守るんだって思っていた。だけど、それができない」
不意にエレナが、手を伸ばした。雪のように白い指先が、ヴァンの手を取る。共に冷え切っていたので、冷たさも温かさも感じられないが、柔らかな手の感触だけは鮮明だ。
「逃げても同じよ。外に出て、肩書をなくしてしまえば、私たちはただの子供。生きることもできない。あなたはこれから、私から解放されて、自由に生きることができるのに」
「解放だなんて」
「ヴァン」
首を振って呼ぶ彼女の目には涙などなく、ただ信念を感じさせる眼差しがあるだけだった。それでもヴァンには、小さな身体の中で精一杯背伸びをするエレナの心が透けて見える気がした。
「私もあなたに出会えてよかった。そうじゃなきゃ、最後かもしれない日にあなたと出会った場所に行ったりしない。さっき、私に『何も持っていない』と言ったわね。そんなことはないの。私には、
つんと鼻に込み上げるものを呑み込んで、ヴァンは知らず込めていた全身の力を抜いた。それから華奢な指を握り返す。
「わかりました、
エレナの視線が揺れた。それでも表情を変えず、彼女は小さく顎を引いてから、急に手を放す。
「ありがとう。約束よ。私が役目を果たすまで、絶対に守って」
ヴァンが頷くと、やっと彼女は微笑んだ。その憂いを含んだ笑顔の美しさは、生涯忘れることはないだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます