19 雨の記憶①


 器楽室の窓に、大粒の雨が打ち付けていた。急流が岩を砕くように硝子の表面を洗う雨水は、収まることを知らない。


 このような豪雨がもう、半月以上続いていた。降っては止みを繰り返すのだが、またすぐに雨粒が地面を叩き完全な晴天などもう暫く拝んでいない。 


 ここ数日、星の宮の空気が重い。神聖な神殿を擁しているこの場所は、普段から決して賑やかな雰囲気ではなかったが、常ならばエレナが小さな騒動を起こしたり、侍女たちの噂話が飛び交ったりしているはず。この辛気臭い空気はいったいどこから流れ出ているのだろうか。


 その一因は、紛れもなくこの宮の主にあった。膝に神笛を置き、吹くでもなく指を動かして、音階調整のための穴を手持無沙汰に開いたり閉じたりしながら、ぼんやりと窓の外を見遣っているエレナ。その瞳は、いつになく静かだった。


 元気はないのに、どこか満たされたような様子で過ごすエレナの姿に、ヴァンは違和感を隠せない。いつものお転婆はどこへ隠れてしまったのだろうか。


「エレナ」


 声をかければ、振り返った表情は、少なくとも表面上はいつもと同じに見えた。彼女は少し首を傾けて、続きを促す。まだ十一の歳の幼い星の姫セレイリが、何やら大人びて見えた。


「陛下がお呼びだよ」


 岩の王サレアス星の姫セレイリを臣下として寵愛していることは周知のことだったし、エレナ自身も頻繁に岩の宮に呼ばれる立場だったので、侍従から知らせを聞いたヴァンは特に身構えずに伝えたのだが、エレナは微かに顔を強張らせたようだった。


「どうしたの?」

「ううん、何でもない。準備したら向かうと伝えてくれる」


 その言葉はヴァンを飛び越え、戸口付近に控えていた岩の宮の侍従に伝わる。彼は一礼をして、王の元へ戻っていった。


「それでは星の姫セレイリ、笛の練習は今日はこれまでにしましょう」


 ワーレン司祭が何やら動揺したように、しきりに眼鏡をいじっている。エレナは上の空で頷いて、腰を上げた。


「ええ、そうね。メリッサ、着替えを手伝ってくれる」

「かしこまりました」


 器楽室から自室に戻り、簡単に着替えを済ませたエレナは、淡い乳白色の簡素なドレス姿だった。女性の装いのことは良くわからないが、髪も軽く結っただけの素朴な姿に、わずかばかり違和感を覚えたが、この時は特に気にしなかった。


 雨が降りしきるため、めっきり庭園には出ていない。道はぬかるみ、庭師が丹精込めて世話した花々は、水没して枯れてしまったようだ。一行は、遠回りを厭わず、回廊を抜けて岩の宮に入る。境界となる道を抜ければ、宮の空気は一変する。俗世の王が住まう王宮は、神の子が住まう場所よりも騒がしく感じた。


 向かったのは、謁見室だった。扉の前に立つ黒衣の騎士が敬礼し、それに目礼を返してから、開かれた扉に足を踏み入れる直前、エレナはふと停止する。周囲が怪訝そうに星の姫セレイリに視線を向けた。


星の姫セレイリ?」


 呼びかけてみると、エレナはこちらを真っすぐに見つめ、言った。


「あなたはここで待ってて」

「え?」


 常ならば、王の召喚に応じる時も側に控えることが許されていたので、意外な発言にその意図が読めない。驚き顔のヴァンを見る視線が揺れた。


「すぐに終わるから」


 都合悪いものを隠すように一方的に視線を逸らし、彼女は一人室内へと向かう。ヴァンの眼前で重厚な扉が静かに閉じられた。


 中で何が話し合われているのか、守衛にそれとなく問うてみても、彼らはその件については口を開かなかった。ほどなくして、エレナの見立て通りさほど時間を要さずに面会は終了したようだ。戻ってきたエレナの表情には、特に変わりはない。


「どうだった」

「特になにも」


 一瞥だけ寄越して答え、エレナはそれ以上語らずに星の宮へ足早に戻る。感情を押し殺すのは得意だが、それを隠すのが不得意なエレナのことだ。何か、ヴァンに言いづらいことでもあり、おそらく宮の他の面々はその内容を知ってるか、薄々勘づいている。そんな印象だった。


 頑なに口を開かないエレナに交渉をしても無駄だと数年の付き合いで理解していたので、ヴァンは周囲を探ってみることにした。ワーレン司祭もメリッサも他の侍従たちも、一様に満足な回答をくれない。


 そんな中、豪雨が始まってから始終多忙にしていた前任の星の騎士セレスダハーヴェルが視察から戻ってきたとの報を受け、騎士団の本部へ向かった。


 黒を基調とした、重厚な造りの建物に入ると、いつものことながら背筋が伸びる気分だ。普段よりここで厳しい鍛錬を行っているのだから、あまり心安らぐ場所ではない。


 侍従に聞けば、ハーヴェルは入れ違いで岩の宮に行ったという。少しすれば戻って来るだろうと聞き、時間を持て余したヴァンは、唯一の友人ともいえるイアンの部屋に向かった。


 夕食前の時間帯だったため、本日の鍛錬などは終了している頃合いだと見計らっての訪問だが、やはり彼は室内で休んでいた。


「ヴァン」


 来訪者の顔を見るなり、イアンは気まずそうに視線を逸らす。またか、と思った。彼も何か知っているのか。下手に問い詰めれば隠されるとわかっていたので、敢えてイアンの調子に合わせてみた。


「急にごめん。ちょっと、一人で過ごす気分じゃなくて」


 いつになく弱々しい言葉に、善良な少年は胸を打たれた様子だった。鎌をかけているのが申し訳なくなるが、彼なら許してくれるだろう。イアンはその整った顔に憂いを纏わせ、小さく頷いた。


「ああ、わかるよ。夕食まで時間があるだろう。俺でよければ話相手になろう」


 促されて、肌触りの良いソファに腰掛ける。差し出された水を礼を言って受け取り、一口飲み込んだ。


「今日、エレナが岩の宮に呼ばれたよ」

「そうか。内容は?」


 ヴァンは首を横に振る。本当にわからない。だが、イアンの目にはそうは映らなかったようだ。


「十中八九、あのことだろうな。ハーヴェル卿も現地の視察に忙しくされているようだし」

「現地?」

「アーヴェ川の下流域だ。あの辺りは川が大きく湾曲しているだろう。今回の豪雨で、最も被害を受けている場所だ。祭祀が実行されるのであればそこだろう」


 ヴァンは訳知り顔で頷いて見せたものの、話のつながりが理解できていない。


 国土の安全を維持するため、黒岩騎士団が災害地に派遣されることは当然のこと。しかしながら、ハーヴェルの任は次代の星の騎士セレスダ育成と、その補助である。彼自身が視察に行ったのであれば、それは星の宮に関する事柄なのだろうが、その祭祀というのが全く心当たりがない。


「祭祀は、行われるかな」


 様子伺いで呟いてみると、イアンは口を固く閉じてから、頷いた。


「おそらく。お前には……いや、俺にとっても辛いことだが」

「いつ頃の予定だろう」

「耳に挟んだ話だと、今すぐにでも、という話もあるらしい。陛下ができる限りのところまで先延ばしにしてくださっているようだが、それに伴う反発も出ている」


 何やら良くない祭祀であることは間違いなさそうだ。これ以上どうやって深堀するかと思案する沈黙を、イアンは別の意図と捉えたようだった。少し姿勢を正し、彼は前傾してこちらを見つめた。真摯な碧眼がこちらを射抜く。


「祭祀があったとしても、星の姫セレイリはそれを受け入れているようだ。俺たちはあの方の意思を尊重し、最期を穏やかに迎えられるように尽くさねば」

「最期?」


 ヴァンの復唱に、イアンは頷く。


「ああ。辛いだろうが、神の元に帰る前の、最期のひとときを……」


 ヴァンは思わず腰を上げた。急な動きに床が揺れ、水差しから微かに水滴が飛び散った。


「祭祀って、この豪雨を鎮めるためにエレナが犠牲になるってことか」


 イアンは目を白黒させていたが、ヴァンの様子を見て、全てを悟ったらしい。


「お前、知らなかったのか? 星の騎士セレスダなのに。いや、全国民が知っていると思ったが」


 ヴァンは幼少期を波の民として過ごしている。さらに、保護される前の記憶は、全てを思い出した後さえまばらである。星の騎士セレスダになってからは星の姫セレイリの生贄話など話題にするような無粋な者はいなかったので、耳にする機会がなかったのだろう。


 本来は、ハーヴェルが伝えるべき事柄であったのだろうが、真面目なようでいてやや抜けたところのあるあの騎士は、まさかヴァンがこのことを知らぬとは思わぬまま、教育を進めたのだろう。


 これを踏まえれば、彼が語った星の騎士セレスダの教えがより深い意味を持って胸に落ち着く。「星の姫セレイリの剣となり盾となれ。己の命尽きるまで、主の全てを守り抜け。されど、彼女を愛しすぎてはいけない」。教えの一つである。


 おそらくこれは、敬愛し命を賭して守護した主君を、避ける術もない天災のため失うことになる星の騎士セレスダたちにとって、主君との間に確かな壁を作ることは、己の感情を守るために必須のことだということなのだろう。何も知らないヴァンはただ、「主従の立場を弁えよ」という意図だと思っていた。


「ごめんイアン、今日はもう戻るよ」

「おい、ヴァン!」


 言って早足に部屋を出たヴァンを、彼は呼び止めようとしたが、それ以上は追いすがって来なかった。


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