17 祭祀の宵③

 なぜ何の攻撃もないのか。アリアの疑問はもっともだ。ヴァンは黒々とした木々の群れを見回す。上方で煌めく小さな光を見つけ、敵かと身構えたが、それは月夜に淡く光る星の一つであった。続いて下草の方を見遣り、微かに光るものを見つけた時も、未だ、こうと鈴の音の催眠が解け切れていないためか、星影であると錯覚した。しかしそれはあり得ない。視線の先は夜空ではない。木々の根の辺りなのだから。


 ――うお!


 驚きの声を上げたのは、クロだけだった。生身の三人はただ息を吞み、茂みから飛び出したそれを躱すだけ。ヴァンとアリアは互いにぶつかり合い、衝撃でつんのめって体勢を崩す。敵は複数。一様に黄色い目をした、野犬……いや、狼だった。無様に転倒こそしなかったが、次なる攻撃を避けきることができるだろうか。


 ――任せろ。


 掠れたいつもの声が言った途端、狼とヴァンたちの間の土が振動し始めるが、揺れに足を取られ、イッダが膝を突いた。狼がそれを見て、飛び掛かってくる。


「クロ、やめろ!」


 ヴァンの言葉の意図は、すぐに理解したらしい。近距離で地面を割こうものなら、敵だけではなく、こちらまで被害を被るだろう。クロの力の作用は即座に止まり、地鳴りも残響を残すだけ。


 幼いイッダに、獣の牙が迫る。刹那、何かが狼の側腹部に突き刺さり、鮮血が飛び散る。子犬のような鳴き声を残し、狼は飛び退いてから、仲間の側に逃げ帰る。そこには四対の黄色い瞳。それらは皆、仲間に投擲とうてきを放ったアリアを見据えていた。


 四頭の獰猛な獣に睨まれたアリアはしかし、怯える気配もない。再度武器を投げようと、懐から小さなナイフを取り出した。狼は咆哮を上げ、うち二頭がこちらに飛び掛かる。クロの、生物に干渉する力はこの近距離では使えない。それならば、いつかのように、クロにこの身体を明け渡し、戦うしかないだろう。


「クロ……」


 言いかけた時、右側の茂みから、新たな敵の姿が目に入る。アリアは、前方の敵しか見ていない。狼は、弾みをつけてこちらに飛び掛かる。


 ヴァンは咄嗟に、肩を借りていたアリアを突き飛ばした。すると当然、彼女の身体という盾がなくなり、狼の爪牙そうががヴァンを襲う。丸腰のヴァンは瞬時の判断で足元にあった枝を拾い上げて敵の牙を防ぐが、心ばかりの武器はあっけなく折れた。続いて、鋭い爪が迫る。急所を守ろうと眼前に持ち上げた左腕を、狼の爪が切り裂いた。


 赤が舞い、鋭い激痛が少し遅れてやってくる。敵を見遣ると、あんな枝でも役立ったようで、折れた木が上顎に刺さったらしい狼は、悶絶している。


「スヴァン!」


 イッダが恐怖に竦んだ目でこちらを見つめている。震える彼の脚では、立ち上がって逃げることはできないだろう。ヴァンは痛みを堪えるために奥歯を食いしばったまま、言った。


「アリア、イッダを連れて逃げるんだ」

「何を言っているのです。そんな状態のあなたに勝ち目はありません」


 ヴァンは首を振る。もちろん自己犠牲ではない。クロはいつだって、人間離れした身のこなしでヴァンの身体を操り、敵を惨殺するのだから。


 ――やる気だな、ヴァン。


 舌なめずりすら聞こえそうな、低い声。血に飢えた剣の神が、戦いの気配に高揚している。


「アリア、剣を貸してくれ」

「スヴァン、無茶です」


 確かにクロがいなければ、痛む腕を抱えて計五頭の獣を相手取ることなど無謀だろう。事情を知らぬアリアの杞憂も自然なことではあるのだが。大丈夫だから剣を貸してくれと、咄嗟に説得する余裕もない。狼の追撃がやってくる。今度はアリアもイッダを庇いつつ、武器を構えた。


「剣を早く」


 腕を伸ばして催促する。止血する余裕のない左腕から血が滴り、あまりの量にイッダが息を吞んだ。失血により、意識が混濁する前に、どうにか切り抜けなければならない。獲物の血液の匂いに、狼は活気づく。


 しばしの逡巡の末、アリアは質素な鈍色の鞘に納められた細剣をこちらに投げた。無事な方の手で受け取り、同居人に意識を向ける。


 ――血が騒ぐぜ。自由にやっていいな?

「ああ、君に任せる……」


 意識を手放そうとした時だった。鋭い指笛の音が響き、全ての者が動きを止めた。音は、森の出口側から風に乗ってくるようだ。次いで、地鳴りのような音。それは次第に近づいてくる。強弓が風を切り、ヴァンたちと狼の間に突き刺さった。


 振り向けば、森の一角が赤く光っている。それが角を曲がると、現れた姿に目を疑った。松明の灯が目に痛い。視界が光に慣れてきて、目に映ったのは数十の騎兵。その隊服は紫。波の王オウレスの、紫波しは騎士団の装束だ。


 ――おいおいおい、なんだありゃ。


 失血のせいばかりではないだろうが、思考が追い付かない。束の間、反体制派の不穏分子がこの森にいると聞き、ヴァンたちを捕らえるために波の王オウレスの配下が派遣されたのかと思った。しかし彼らが対峙するのは狼たち。視線を横に向ければ、敵兵の出現にも拘らず、アリアの頬には微かな安堵すら浮かんでいた。


「どういうこと」

 呟くと、アリアは何でもないことのように言った。

「味方です。ご安心を」


 その時にはすでに、先ほど覗いた安堵の表情はなく、いつもの無機質な顔になっている。騎兵が狼に突撃し、獣が怯えて森に駆け込んで行くのを興味もないような顔で眺めていた。それからふと思い出したように、ヴァンの腕の傷に目を向けた。深々と抉れた傷口を観察し、服の裾を破いた布で止血をしてくれる。もう痛みも感じないほど、感覚が鈍っていた。


「大丈夫ですか。しっかり」


 頬を軽く叩かれるが、頷くのが精いっぱいだった。身体が冷たい。氷の湖に漬かっているようだ。


 ――おいヴァン、ここで死ぬなよ。


 クロの心配そうな声なんて初めて聞いたものだから、場違いにも笑みが零れた。もしクロに身体を貸していたら、無理な動きで出血が促進され、それこそ死んでいたかもしれない。イッダは今にも泣きそうな顔でこちらを見ていて、アリアは手当を尽くしてくれる。


 まさかこんな傷で命を落とすことはないだろうが、瞬きする毎に、視界に靄がかかるようだった。そしてヴァンは、意識を失った。

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