16 祭祀の宵②

「主神よ、お納めください」


 眼前の巫女が腰を下ろしつつ、あでやかな赤い唇で言う。彼女は陶器に入れられた聖水を持ち、右に座した女は香炉の乗せられた盆を、左の女は籠いっぱいの果物を抱えている。


 ――酒はないのか。


 不満げなクロの声に何か返そうかと思ったが、どうにも先ほどから頭が働かない。夜分遅いため、日中の疲労から眠気を覚えているのだろうと思った。束の間、意識を失いかけた時、意図せず左に傾いだ頭を巫女の一人が支える。動きに合わせて、ちりん、ちりんと鈴が鳴る。


「いかがされましたか」


 正常な意識であれば、彼女の声音が全く動揺していないことに気づけただろうが、この時のヴァンは思考が鈍くなっていた。


「いや、なんでも……」


 口を開くのも億劫で、黙って姿勢を正そうとした動きを、たおやかな腕が阻む。気づけば果実の籠は床に置かれ、ヴァンの身体は巫女の腕の中にあった。


「良いのですよ、そのままお休みになって」

 ――おい、もうちょっとくっつけ。


 クロが場違いにも言ってしまうほど、甘美なほどに艶めいた声。生温かい吐息が耳朶にかかるも、身体が動かない。


 この段になって違和感に気づき、ヴァンは唯一自由になる目を動かし、それぞれの巫女の顔を盗み見た。紅が引かれた唇の端が一様に微笑みの形に弧を描くが、その眼光は鋭く、決して笑ってはいない。薄ら寒いものを感じるも時すでに遅く、妙な匂いを垂れ流す煙を視線で追い、鈴の音を聞きながら、意識を手放す……。


 次の瞬間、何かが弾けるような音がして、嘘のように思考が鮮明になった。咄嗟に身を引こうとしたが、出来ない。身体が動かないのだ。いや、違う。身体は動くのだが、その動きを制御しているのは、ヴァンではなかった。


 指先が女の腿に触れて、理解した。この身体の主導権を持っているのは、クロだった。こんな時なのに、あわよくば少しでも良い思いをしようと下心満載で巫女の身体に触るこの邪神をどうにか止めたかったが、瞬き一つ自由にならない。仕方なく、叫んだ。


 ――何やってるんだよ! 早く戸を開けて逃げよう。


 脳内に響く声を聞いてやっと、状況を理解したらしい。クロはヴァンの身体で目を丸くした。


「ん? なんだこれ、俺が動かしてるのか」


 その声に、巫女が反応し、自ら身体を寄せてくる。柔らかな肌の感触は確かにそこにあるのだが、まるで水を掴むかのように曖昧な感覚だった。自身が身体を動かしている時よりも、思考以外の全ての感覚が鈍かった。


「まあ、本当に主神でいらっしゃいますのね。あなた様がお戻りになられるのを、心待ちにしておりました」

「なんだ、俺を待ってたって?」


 ――こいつら、僕を追いやってクロに身体を使わせる気か。

「ああ、なるほどな」

 ――なるほどじゃない。動けるなら、早く外に!

「野暮なこと言うなよ。ちょっと楽しんでから」

「ええ、今宵はごゆっくりと」

 ――僕の身体で変なことしないでくれ! 頼むから!


 いつになく強い語気に一言悪態を吐いて、クロが女たちから身を引こうとしたのと、不意に扉が蹴り壊される轟音が響いたのは、ほとんど同時だった。


 破壊された扉から月明りを背に、蹴りを繰り出した格好のままの救世主と視線が合う。彼女は少し眉を上げてから、転じて微かに顔を顰めた。


「お邪魔でしたか?」

「アリ、ア……」


 声が出た。新鮮な空気が屋内に流れ込み、甘ったるい香の匂いが薄れると、急速に意識が前面に押し出される。それと同時に、先ほどのように思考も身体の動きも鈍くなる。代わりに五感の鋭さが戻ったようだ。


 ヴァンは、急なことに驚きを隠せない巫女三人を押しやり、つんのめりながら戸口に向かう。


「助かった……、ごめん、ちょっと、動けない……」

「こちらに」


 申し出に甘え、肩を借りる。その細い身体のどこにそんな力があるのだろうか。ほとんど半身分の体重をかけられた恰好になりつつも、アリアはしっかりとした足取りで駆ける。背後から追手が来ていたが、どこに隠していたのか、アリアは振り返りざまの投擲とうてきでそれを阻止した。


「……イッダは?」

「牛の番です」


 意味の掴めぬ雑な回答であったが、その意図はほどなくして判明する。里を取り囲む柵の唯一の可動部で、牛を叩き起こして開閉装置を起動させたのはイッダだ。


「アリア、スヴァン、早く!」


 松明たいまつ片手に手を振るイッダに追いつき、三人で里を出て、森に転がり込んだ。門の守衛は二人とも、座り込んで眠っているらしかった。後から聞いたことによると、アリアが眠り薬入りの水を差し入れたらしい。


 首尾よく里を出たとしても、そこは恐ろしき迷いの森である。どこに見張りがいるか分かったものではない。


「松明、まずいかな」


 イッダの不安げな声に、アリアは冷静に答える。


「持って行きましょう。それがあってもなくても、彼らは私たちを見つけるはずです」

「え、じゃあ殺されちゃうじゃん」

「……スヴァン。は、できますか」


 皆まで言わぬが、クロの力を使うことを言っているのだとわかった。敵が潜む木々が特定できれば、その一帯の土を掘り返すか、場合によっては木々をどうにかすることも可能かもしれない。


「多分。……クロ、どうだ」

 ――ああ、土はいけるぜ。木は、ちょっとどうかな。お前の体力が回復しないと無理かもな。それかいっそ俺に身体くれよ。そしたらこの力使い放題だ。


 お楽しみを奪われたクロはやや不貞腐れた声音だが、冗談ではない。どこまでも呑気なこの神に怒りが湧いてくる。一発殴ってやりたいが、それをすると痛むのは自分の身体だというのがもどかしい。


「このくそ邪神」

 ――お前、口悪くなったな。

「誰のせいだよ」

「……元気になったようで良かったです」


 繰り広げられる会話の仔細は分かるはずもないだろうが、概ねの内容は想像できたのだろう、アリアが言った。そこに来て、声の近さに気づき、肩を借りたままであることに思い至る。動きを察したアリアは、冷静にもヴァンの腕を掴んで引き留めた。


「まだ足を引きずっています。もうしばらくご辛抱を」

「ごめん、助かるよ」


 アリアは頷き、前を見据える。松明を掲げて足元を照らしてくれるイッダの呼吸が、疲労により荒くなっているのが分かった。三つの影が、炎の朱に染まった地面を駆ける。周囲の気配を探れば、監視の目はあるようなのだが、攻撃を仕掛けてくる様子はなく、潜伏場所の特定が困難だ。


「妙ですね」


 アリアの呟きに、イッダが顔を上げて視線で問う。それを一瞥し、彼女は周囲の黒々とした木々を見回した。


「彼らは見ているはずです。それなのに、なぜ何も行動を起こさないのでしょう」

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