12 出立の日

 ――わかるぜ、兄貴のああいうのは、かなりきついよな。


 この手の話が大好きなクロも、今回ばかりは困惑気だった。


 いつもの食堂、いつもの献立にいつもの面々。以前まではヴァンとアヴィン、アリアの三人で食卓を囲んだものだが、ここしばらくはヴァンがイッダと物理的に繋がっていたため、彼も共に食事をとる仲だ。


 ヴァンとアヴィンの間に流れる妙な空気に、イッダはパンを頬張りながら首を傾げる。


「どうしたの」

「いや、別に」


 ヴァンが返すと、イッダはますます顔を顰める。


「なんだよ不気味だな。まさかアリアの里に行くのが嫌になった?」

「そんなことはないよ」

「じゃあなんだよ。アリア、何か知ってる?」

「いいえ、全く」


 黙々と食事をとる彼女の様子を見る限り、先ほどのことは何とも思っていないらしかった。幸いなことに、本日からの外出に備え、縄を結っていなかったので、今朝の事件の際にはイッダは一人で二度寝をしており、一連の出来事は知る由もない。空気を打ち破ったのは、アヴィンだ。


「出立は何時いつの予定だ、スヴァン」


 思いの外、普段通りの声音だったので、気にしているのはヴァンだけかもしれない。ヴァンは心ばかりの野菜が浮いたスープを嚥下し、平静を装った。


「昼前には。ゼトが自分も行けると思っていたらしくて、宥めるのが大変そうだけど、なんとか予定通りにあちらに着けるようにするよ」


 今朝方より、ゼトが妙に元気であったのも、外に遊びに行けると思い込んでいたからだ。この度の招待は、彼らの剣の神を祀る儀式に際し、剣守けんもりの巫女アリアと彼らの神を宿したヴァンに向けられたものであり、余所者を拒む内向的な里であるために、大所帯での訪問は控えることになっていた。他にあちらに向かうのは、ヴァンの側近扱いになっているイッダだけだ。


 ゼトとしては、イッダと常に一緒に行動をしていたため、まさか置いて行かれるとは思い至らなかったのだろう。駄々をこねて泣く幼子をあやすのが、ああも大変だとは思ってもみなかった。


「そうか。ではまだ少し時間があるな」


 アヴィンは顎を撫でて何やら思案顔になった。続く言葉を待つ間、ヴァンはもう一口スープを飲んで、パンを千切った。


「出立前に少し二人で話そうか、スヴァン」


 一体何事か。これまで二人で改まって話す機会などなかったので、やや身構えてしまう。そんなヴァンの気などいざ知らず、アリアが小さく首を傾けた。


「私たちは向こうに行きましょうか」

「いや、いい。食事が終わってからにしよう」


 改まって言われると、何やら急に食事が喉を通らなくなる。口内の水分が減少し、ただでさえ硬いパンを咀嚼するのが一苦労だ。王宮暮らしのおこぼれに預かっていたヴァンの舌は知らぬ間に肥えていたらしく、手元の古パンは食欲がなければ、進んで食べたい味のものでもなかった。


「それ、食べないの?」

「あげるよ」


 物欲しげなイッダにパンを押しやると、彼は頬を綻ばせる。この少年の気を引くには、餌付けが一番有効だろう。


 ほとんどスープだけの食事を終え、アリアと、久方ぶりに拘束具から解放された上機嫌のイッダが食堂を出て行ってから、アヴィンは腰を上げて、ついてくるように促した。その背中を追い、妙な感慨を覚える。


 初めは、反旗を上げる日のために、ただ従順な振りをして機会を伺っているだけだった。それなのに、しばらく共に過ごす中で、彼が兄であることを当然のように受け入れ、この地下の面々にも愛着を持ち始めていることに気づき、罪悪感を覚えるのだ。


 きたる日、果たして何の迷いもなく、彼らを裏切ることができるのだろうか。軟弱な思考に陥る度、ヴァンはアヴィンたちが行った仕打ちを思い出し、憎しみを保つ。彼らはエレナに矢を射り、王太子に一生消えぬ傷を負わせた。どんな事情があったとしても、恨むべく者どもだ。


「さて、この辺りで良いか」


 アヴィンが脚を止めたのは、坑道の行き止まりに当たる場所だった。食堂のすぐ側である。深い意味はなく、人気ひとけのない場所に来ただけだろう。細い空気穴がぽつぽつと空き、淡い陽光が差し込むが、辺りはやはり薄暗い。


「アリアの件だが」

「今朝は、何も見てないから大丈夫」

「いや、そうではない」


 思わず口を閉ざし、アヴィンの顔を見つめてしまう。彼は束の間こちらと視線を合わせてから、決まり悪そうに斜め下に視線を逸らした。


「アリアの里のことだ。そなたは初めて行くだろう」

「ああ、そうだね。……前に聞いた話だと、すごく閉鎖的な場所だとか」


 勘違いにやや気恥ずかしさを覚えたものの、アヴィンが何事もなかったように続けてくれるのが幸いだ。


「そうだ。常ならば、まず余所者は脚を踏み入れることなどできない」

「道が険しいから? 確か北の大山脈の麓辺りにあるんだったか」

「それもあるが、里は迷いの森に覆われているのだ」


 ヴァンは眉根を寄せる。突拍子もない、いかにもな眉唾話に聞こえてしまう。迷いの森だなんて、おとぎ話の世界のようだ。アヴィンはヴァンの表情を眺めてから、口の端を少し歪めた。


「気持ちは分かるが、嘘ではない。ただ、迷わせてくるのは魔女だとかそんな話ではなく、里の武人が木々の上から監視をし、侵入者があれば容赦なく射殺すのだ。人を食う野生の獣も多いようだから、遺体は綺麗になくなってしまう」

「迷いの森、とはよく言ったものだね」


 実質的には、迷わせられて人が戻らないのではなく、殺されて土に還るため、神隠しに遭ったように見えるだけということか。アヴィンも同意とばかりに頷き、小さく笑う。


「ようは、ただのおっかない森だ。しかし、これが彼らの一番の武器でもある。あの一族が今の今まで、他の民と諍うことなく、この波の地で静かに信仰を守っているのは、その閉鎖的な環境と、徹底した排斥の賜物だろう」

「どうしてその話を今?」


 まさか怖がらせようだなんて魂胆ではないだろう。用心しろ、というのは分かるが、アリアと一緒のため滅多なことはないだろうし、そもそもヴァンは、彼らの神をその身に宿し、彼らの賓客として招かれているのである。アヴィンはしかし、神妙な声で続けた。


「排他的ゆえ、彼らは、外に出た巫女を快く思ってはいない。彼らがこの地に漂着し、居住を赦されてから、波の王オウレスに誓う忠誠の証として、代々の剣守が王宮で暮らしてきた。その役目を受け継ぐアリアは、里の安寧のためのいわば生贄だ。快く思わなくとも、排除することはできぬもの。だから滅多なことはないとは思うが。心からの歓迎はされていないという意識で行ってくるといい」

「招かれているのに酷い話だ」

「ああ。くれぐれも、気を付けて」


 言ったアヴィンの声音に嘘はない。まさかただ単に、安全を心配して忠告してくれただけなのか。言葉を探すしばしの沈黙に耐えられなかったようで早々にアヴィンが口を開く。


「なんだ。心配をしてはいけないのか」

「いけなくはない、けど」


 口ごもってまた途切れた言葉に、アヴィンは小さく吐息をついたようだった。周囲に誰もおらず、二人きりでの会話となると、何やら気が張ってしまうのはなぜだろうか。


「まあ良い。そなたとアリアは大丈夫だろう。一番心配なのは、あの子供だ。手綱は付けて行った方が良いのではないか?」


 ヴァンは肩を竦める。確かにイッダを自由にさせておいた挙句、問題を起こして里の者に目を付けられるのは遠慮したい。それに、反発したい盛りのイッダが逃げ出そうと迷いの森とやらに入り、怪我でもしようものならば……。イッダを自由にさせることは、想像するだけでも面倒だというのも一理あるのだが。


「……でもさすがに繋いで行くのは大変だ。やっぱり留守番してもらおうかな」

「それはいけない。あの子供は、そなたとアリアの言うことしか聞かない」

「あれで言うこと聞いているように見えるのか」


 ぼやいてはみたものの、確かにアヴィンや他の者の言葉には、もっと反発をするかもしれない。


「ならやっぱり拘束しないとだめか」

「あの縄はどうかと思うがな」

「他に何か方法ある?」


 一応聞いてみたが、アヴィンは首を横に振るだけだった。

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