11 悪夢
※
剣戟、爆音、断末魔の悲鳴。負の感情と鮮血の臭いと累々たる亡骸。全て、この身に染み付いて離れないもの。ああ、またこの夢か。夢であると即座に理解ができるほど、繰り返し脳内で再生をされた、あの日の記憶。
「良いか、よく聞くのだ」
蒼白な顔をした父の、深い藍色の瞳がこちらを真っすぐに見つめる。
「そなたはこの国を継ぐ者。波の民を守る者。この国は今、
まだ細い己の肩に、父の太い指が食い込む感覚すら、鮮明だ。
「いいか、アヴィンジーク。そなたは波の加護を受けた者。落ち延び、協力者と共に時を待て。
死期を悟り、息子に全てを託そうとする父の姿に、胸が締め付けられる。どこかの扉が破られたのか、城が大きく揺れ、悲鳴と何かが割れる甲高い音が遠く響く。
「息子よ。
その刹那、父の声に、甲高い狂ったような笑い声が被さった。視線を向ければ、髪を搔き乱した母が、絶世の美女と言われた顔を歪め、腹を抱えて笑っている。
「このようなときに……」
「もうおやめくださいな」
母は、抱えた腹をそのままに狂人と化したまま、息子を指さす。爪先に塗られた深紅の塗料が、先の方から剥がれ落ちていた。
「これは、波の加護など受けてはおらぬ」
妻の妄言に、王は顔を顰める。
「狂ったか」
「狂ったか? ええ、ずっと前から狂っておりますとも。妾もあなたも」
王は更に眉間の皺を深める。
「あなたが、あなた自身の子供を殺すような狂人でなければ、妾もこのようにはならなかったであろう。妾はただ、子を守りたかっただけ」
「要領を得ぬ者と話す間が惜しい。その口を閉じよ」
「ええ、閉じますとも。死すればな。その前に、その傲岸な頭に絶望を叩き込んでやる。……これの波の加護は、紛い物じゃ」
向けられた母の指先を見つめる。絶望というより、虚無感に苛まれる。
「この
当時は、その意味は理解できなかった。対して、現在の記憶を併せ持つアヴィンの胸には、あの時感じた虚無感はもはやなく、劣等感の暗黒の闇の中、深淵の底に燻る憎しみの炎がちらついている。
「アヴィン」
不意に、もはや聞き慣れた青年の声が呼びかけてくる。振り向けば、そこにも藍色の双眸。父のそれと比べてみれば、全く同じ色合いである。己の紛い物の瞳は、暗い影を孕んでいるにもかかわらず、彼の眼は澄んだ光を宿していた。
「アヴィン、どうしたの。そんな顔をして」
邪気のない話し方は相変らず。少し目尻の垂れた柔和な顔立ちも、父に似ている。それが憎しみを駆り立てるのに、確かな血の繋がりを感じさせられ、情を覚えるのも否定はできない。
「スヴァン」
「そうか君は、僕が羨ましいんだね」
悪びれた風もなく、穏やかな声で囁かれるのは、残酷な事実。
「君は紛い物だから。波の加護のない王になる。それでもこの無駄な戦いはやめないのか」
「やめろ」
「ああ、まさか君が王になったら、父上は喜んでくれると思っている? 偽物を、あんなに嫌悪していた父上が……」
「やめてくれ!」
鼓膜に自分の叫びが届き、正気に戻れば見慣れた部屋の茶色い天井が目に入る。息を整えて、額に浮いた汗を拭って隣を見遣ると、感情の起伏の少ないいつもの黒い瞳が、じっとこちらを見つめていた。
「……すまない、アリア。起こしてしまったか」
「またあの夢ですか」
謝罪には答えず、真っすぐに問うてくる無機質な声。ある時から彼女は感情のほとんどを失い、笑わなくなった。幼少の頃は少し内向的とはいえ、人並みに笑う娘だった。アヴィンは、シーツの中で半身を起き上がらせた格好のアリアの、陶器のような頬を撫でてから、自嘲気味に首を振る。
「ああ。しかし今日はもっと……」
アヴィンは言葉を探して口を閉ざす。夢の中で弟に語らせたことは全て、己自身が心の奥底に封印してきた劣等感と迷いだった。
あの日。まだ王都と呼ばれていたあの街が陥落した時。母が語ったことを頼りに探し出した腹違いの弟。憎しみと怒りと、ほんのわずかな肉親の情で彼を迎えに行ったが、時すでに遅く、彼の母親は惨殺され、弟は南に連れ去られていた。
やっとスヴァンと出会って感じたのは、憎しみでも情でもなく、最初に母に真実を暴露された時に感じたのと同じ、ただの虚無感。彼の藍色の瞳を眼前にすれば、虚構の王となるべく過ごした己の十年が、全く無意味な足掻きであったのではないかとすら思われた。それでも、歩みを止めることはできない。これまで自分に付き従って来てくれた者らを、失望させる訳にはいかなかった。
次なる言葉を待っているアリアは、瞬きもしない。城を落ち延びた日以降、最初から今まで隣にいてくれたのは、彼女だった。
アヴァンにとって、彼女の動機はどうでも良かった。ただ、目の前にいるアリアが、その乏しい感情の中に一滴の憐憫を持って言葉を投げかけてくれるのならば、それだけで心救われる思いだった。
彼女の素肌を抱きしめようと腕を伸ばす。その時、何やら扉の近くで騒ぎ立てる声が響く。何事かと思い、視線を向けたのと同時に、扉は不躾にも大きく開いた。
「おはようございます! でんか!」
殿下という敬称を個人名だと思っているのだろう。この子はいつも無邪気だ。名は確か。
「ゼト! 勝手に入っちゃだめ……だ……」
慌てて後ろから駆けてきて、子猫のような少年を背中から羽交い絞めにしたのは、つい先ほどまで夢の中で眺めていた顔だ。ただし、こちらに向けられた目が、驚きに見開かれている。
アヴィンはアリアの顔を見遣ってみたが、彼女は全く動じていない。反射的になのだろうか、いつも側に置いている鈍色の細剣に伸ばしかけていた指を引っ込めて、あろうことか、「おはようございます」などと平然と言っていた。
固まった雰囲気をほぐしたのは、ゼトである。
「あれえ、アリアだ。でんかと一緒にいたの?」
「ええ」
「そっか、仲良しだね」
そこでやっと思考が戻ったらしいスヴァンが咳払いをして、ゼトを抱き上げる。
「ほ、ほら、戻るよ」
「ゼトも仲良しになりたい」
「そうか、後でイッダ兄ちゃんのところに連れて行ってあげるから我慢して」
混乱した様子の目礼だけ残し、扉を閉じた弟を見送り、アヴィンは額を抱えた。
「頭痛ですか?」
「……ああ」
この直後、朝食の席で顔を合わせるのだと思うと憂鬱だった。
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