10 地下での日常②

 聖サシャ王国に関する噂話が耳に入る度に、胸が締め付けられる。それでも、ここに来たばかりの頃と比べれば、だいぶ楽になったものだ。


 イーサン王太子の馬具に細工をし、落馬をさせたのは状況証拠どおり、反体制派アヴィンの一派である。その理由は直ぐに判明した。


 彼らはエレナが岩の王サレアスの娘であることを、波の王オウレスの側近経由で知っており、彼女を王女にし、ゆくゆくは利用するために王太子に負傷をさせたのだ。


 本当は死んでしまうことを期待していたようだが、あいにく王太子は一命をとりとめた。それでも、身体に障害が残り、精神的にも不安定になりつつある王太子の「保険」として、エレナが岩の宮に迎え入れられることになったのだから、大きな目的は果たせたと言えただろう。


 自分の血筋にも驚愕したが、エレナが岩の王サレアスの娘であったとは。初めて耳にした時には心底驚いたが、言われてみれば、岩の王サレアスがエレナの父親だという事実は、全ての謎がうまく帰着する結論だった。


 星の姫セレイリがどこの誰とも知れぬ男の子供を身ごもったとして、通常の判断であればそのような不祥事はもみ消されるべき。堕胎薬を飲まされるか、腹の子ともども神に捧げられるか、運よく出産にこぎつけても、その子は孤児院送りだろうか。にもかかわらず岩の王サレアスは全てを容認し、あろうことかエレナを次代の星の姫セレイリとしたのだ。岩の王サレアスがエレナを王女に迎えたことは、今思えば誰もが納得する事実だった。


 彼女はどんな思いでいるだろうか。殉職と判断され、葬儀まで済ませた星の騎士セレスダのことなど、もう忘れたかもしれない。新たな星の騎士セレスダ選定の話は、エレナが王女となったため、立ち消えたそうで、星の姫セレイリとしての祭祀の際には、今では前々任となったハーヴェルが付き従うという。その話を聞いた時、資格はないとは思いつつも、安堵したものだ。


 一仕事を終え、イッダと共に食堂を訪れ、少年が嬉しそうに焼菓子を頬張るのを、微笑ましく眺める。つんけんしている時は全く持って愛想を感じないが、年相応の様子を目にすれば、案外可愛らしさもあるものだ。


 自身は紅茶を飲みながら、微笑みすら浮かべてイッダの頬についた菓子の欠片を見ていたが、視線を嫌がった彼は、不意に不機嫌顔で菓子を運ぶ手を止める。


「食べたら? スヴァンが優雅に紅茶とか、似合わない」


 腹など減っていないし、特別甘い物が好物という訳でもないヴァンだったが、せっかくなので塩の焼菓子を一つばかり口にする。昨年、エレナに土産として渡したのと同じ種類の菓子だ。ことある毎に思い出してしまうとは、自分の意思の弱さに閉口する思いだ。ただ、同居人は口を閉じない。


 ――ああこれ、懐かしいな。お前が姫様を口説いた時の土産だったか。

「誰が口説いたんだよ」

 ――おいおい認めろよ。もう星の騎士セレスダじゃないんだぜ。お前は王弟、あの娘は王女。いい組み合わせだろ。

「そんな気はない。彼女にも」


 そもそも聖サシャ王国の面々にとっては、ヴァンは故人である。


 ――そんなこと言ってると兄貴に取られるぜ。明言はしてないが、その気がなければ敢えて星の姫セレイリを王女にする必要はない。


 クロの言葉は正しいだろう。反体制派が現波の王オウレアを退位させたとして、その宗主たる聖サシャ王国は、反発をするはず。いざ開戦となっても、クロの力があればこちらが不利ということはないだろうが、南も含めて民を統治するとなると、やはり旧統治者の威光を借りる必要があるというもの。


 岩波戦争後に、当時神職にあった現波の王オウレアが王籍に戻り王位を継いだように、アヴィンが両国を統一統治するのであれば、その側にエレナを置くことは必然的であると言えた。想像したくもない光景だ。


「ねえちょっと」

 再びイッダの冷たい声。


「またクロと話してるのかよ。気持ち悪いからやめて欲しいんだけど」

 ――黙れ、鼻たれ小僧が。


 この年頃の少年は、これほどにも憎らしいものなのだろうか。クロではないものの、言い返したい思いはあるが、そこは自制する。いや、クロが代わりに罵ってくれるので、こちらは敢えて口を開かなくとも満足できるのか。


「……いいからそれ食べてなさい」

 ――ああ、本当にお前ってつまらない奴だな。

「……」


 ヴァンはイッダの手前、何も言わず嘆息する。このまま一生、おかしな男の意識と同居するのだろうか。


 クロが喋り始めたばかりの頃は、何をするにも彼の視線があると思うと、風呂に入るのすら気が滅入る時期もあった。彼は、ほんの子供の時から見慣れてるから気にするなと言ったが、こちらが気になるのだ。さすがに今では開き直ったが、意識ある限りこれが続くとなると、時折憂鬱になる。そんな鬱屈とした気分は、突如飛び込んできた賑やかな声に掻き消された。


 扉が開き、食堂に入ってきたのはゼトより少し年上の年代の少年少女たち。それよりやや遅れてやってきたアリアの黒い瞳がこちらを捉えた。滑るような足取りで、飲み物も用意せず、彼女はヴァンの向いに座るイッダの横に腰掛けた。テーブルを横断する荒い縄を一瞥したものの、それには何も触れないのがアリアらしい。


「お帰り。何か収穫はあった」

「いつも通りです」


 愛想も抑揚もない口調にも、慣れてしまえば逆に心地よさすら感じる。


「首都に行っていたんだよね。危険はないの」


 反体制派の重鎮が、単身敵の本拠地に乗り込むなど、無配慮にもほどがある。孤児院のことにしても、この広大な地下空間にしても、反逆者の集合体であるこの組織には、呆れるほど不用心な印象を抱く部分が多い。問い詰めてみたことはあるが、アリアもアヴィンも、気にする必要はないと答えるだけで要領を得なかった。


「問題ありません。それより、あなたにお願いが」

 珍しいことに、それを口にする時、アリアの眉間に少し皺が寄った。

「私の故郷に来ていただけますか。主神と一緒に」

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