10 地下での日常②
聖サシャ王国に関する噂話が耳に入る度に、胸が締め付けられる。それでも、ここに来たばかりの頃と比べれば、だいぶ楽になったものだ。
イーサン王太子の馬具に細工をし、落馬をさせたのは状況証拠どおり、反体制派アヴィンの一派である。その理由は直ぐに判明した。
彼らはエレナが
本当は死んでしまうことを期待していたようだが、あいにく王太子は一命をとりとめた。それでも、身体に障害が残り、精神的にも不安定になりつつある王太子の「保険」として、エレナが岩の宮に迎え入れられることになったのだから、大きな目的は果たせたと言えただろう。
自分の血筋にも驚愕したが、エレナが
彼女はどんな思いでいるだろうか。殉職と判断され、葬儀まで済ませた
一仕事を終え、イッダと共に食堂を訪れ、少年が嬉しそうに焼菓子を頬張るのを、微笑ましく眺める。つんけんしている時は全く持って愛想を感じないが、年相応の様子を目にすれば、案外可愛らしさもあるものだ。
自身は紅茶を飲みながら、微笑みすら浮かべてイッダの頬についた菓子の欠片を見ていたが、視線を嫌がった彼は、不意に不機嫌顔で菓子を運ぶ手を止める。
「食べたら? スヴァンが優雅に紅茶とか、似合わない」
腹など減っていないし、特別甘い物が好物という訳でもないヴァンだったが、せっかくなので塩の焼菓子を一つばかり口にする。昨年、エレナに土産として渡したのと同じ種類の菓子だ。ことある毎に思い出してしまうとは、自分の意思の弱さに閉口する思いだ。ただ、同居人は口を閉じない。
――ああこれ、懐かしいな。お前が姫様を口説いた時の土産だったか。
「誰が口説いたんだよ」
――おいおい認めろよ。もう
「そんな気はない。彼女にも」
そもそも聖サシャ王国の面々にとっては、ヴァンは故人である。
――そんなこと言ってると兄貴に取られるぜ。明言はしてないが、その気がなければ敢えて
クロの言葉は正しいだろう。反体制派が現
岩波戦争後に、当時神職にあった現
「ねえちょっと」
再びイッダの冷たい声。
「またクロと話してるのかよ。気持ち悪いからやめて欲しいんだけど」
――黙れ、鼻たれ小僧が。
この年頃の少年は、これほどにも憎らしいものなのだろうか。クロではないものの、言い返したい思いはあるが、そこは自制する。いや、クロが代わりに罵ってくれるので、こちらは敢えて口を開かなくとも満足できるのか。
「……いいからそれ食べてなさい」
――ああ、本当にお前ってつまらない奴だな。
「……」
ヴァンはイッダの手前、何も言わず嘆息する。このまま一生、おかしな男の意識と同居するのだろうか。
クロが喋り始めたばかりの頃は、何をするにも彼の視線があると思うと、風呂に入るのすら気が滅入る時期もあった。彼は、ほんの子供の時から見慣れてるから気にするなと言ったが、こちらが気になるのだ。さすがに今では開き直ったが、意識ある限りこれが続くとなると、時折憂鬱になる。そんな鬱屈とした気分は、突如飛び込んできた賑やかな声に掻き消された。
扉が開き、食堂に入ってきたのはゼトより少し年上の年代の少年少女たち。それよりやや遅れてやってきたアリアの黒い瞳がこちらを捉えた。滑るような足取りで、飲み物も用意せず、彼女はヴァンの向いに座るイッダの横に腰掛けた。テーブルを横断する荒い縄を一瞥したものの、それには何も触れないのがアリアらしい。
「お帰り。何か収穫はあった」
「いつも通りです」
愛想も抑揚もない口調にも、慣れてしまえば逆に心地よさすら感じる。
「首都に行っていたんだよね。危険はないの」
反体制派の重鎮が、単身敵の本拠地に乗り込むなど、無配慮にもほどがある。孤児院のことにしても、この広大な地下空間にしても、反逆者の集合体であるこの組織には、呆れるほど不用心な印象を抱く部分が多い。問い詰めてみたことはあるが、アリアもアヴィンも、気にする必要はないと答えるだけで要領を得なかった。
「問題ありません。それより、あなたにお願いが」
珍しいことに、それを口にする時、アリアの眉間に少し皺が寄った。
「私の故郷に来ていただけますか。主神と一緒に」
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