9 地下での日常①
※
この一年間、反体制派の一員として認められるため、ひたすら従順な振りをしてきた。目の前に兄と名乗る男が現れ、ヴァンの中にいた得体の知れない魔物が言葉を取り戻し、封じられていた波の加護の印が解放されると、自然と失われた記憶も戻ってくる。
幼少の頃。物心ついた時には母と二人、どこかの町に暮らしていたと思う。当時は知る由もなかったが、同居人クロが以前語ってくれたことによれば、母はオウレアス王宮で働いた侍女であり、当時の
思い出したとはいえ、幼い頃の記憶など、曖昧なものだ。ヴァンが覚えているのはただ、母の温かな手が、いつも導いてくれていたことだけ。
クロは逆に、その頃には完全に眠りについていたので、一切の記憶がないという。彼の記憶があるのは、ヴァンが黒岩騎士団に引き取られて以降のみ。
クロが何者なのか、ヴァンにも今一つ掴み切れていない。彼とアリアが語ることには、北の大山脈の向こう側で信仰されていた聖なる剣らしいのだが、聖という言葉がこれほどに似合わぬ男がいるだろうか。
口は悪いし、喧嘩っ早いし女好きときた。それに剣というのも妙だ。彼の本体は、今ではアヴィンが肌身離さず持っている鋭利な形に割れた黒い石だというのだが、あれが剣なものか。どう見ても、古代人が使っていた石器だ。
そんな粗末な見た目のものでも、クロを束縛する力は健在らしい。王妃の血を引くアヴィンが契約者であるのと同時に、剣の欠片の所有者でもあるため、反逆することが、どうしてもできないのだという。
仮にヴァンがアヴィンに剣を向けようものなら、身体を共有するクロに、その動きを拘束されてしまうだろう。謎が多い割に不便な性質で、どうにも神聖な存在には感じられない。
だからヴァンは、彼を勝手に「
対してアリアだけは、クロのことを恭しく主神だの、黒の君だのと呼んでいる。アリアの一族は北の山脈の向こうから、例の黒い石を大事に持って逃げてきた神職の一族だという。その辺りの経緯はクロの記憶は断片的だし、アリアに聞く機会もなかったので、良くは知らない。
兎にも角にも、激動の一年が過ぎ去ろうとする頃には、ヴァンもこの生活に慣れ、アヴィンやアリアから向けられる監視の眼差しも、少しばかり落ち着いたのである。
「ねえ、スヴァン」
幼い透き通った声とともに、袖口を軽く引かれて、ヴァンは振り返る。視界には誰もいない。視線を下に向けてやっと、純朴そうな少年の丸い目がこちらを見上げているのに気付いた。
「どうした、ゼト」
ヴァンは坑道終点の岩壁と照らし合わせていた設計図を折りたたみ、ゼトと視線を合わせるためしゃがみ込んだ。ゼトは純粋そのものの眼差しのまま、小首を傾げる。
「どうしてイッダお兄ちゃんとつながっているの?」
「ああ、これ」
ヴァンは己の左手とイッダを物理的につなぐ荒い縄に目を落とした。心の綺麗な子供にどうやって説明をしようかと思案するが、それも空しく、一足先に問題児が口を開いた。
「こいつら、兄ちゃんを虐待してるんだ。寝る時も風呂に入る時も用を足す時も、ずっとこいつに監視されてるんだぜ」
「イッダ、それはこっちも不本意だよ」
当初、このような拘束具は用意していなかったのだが、事ある毎に坑道内を探りに行って道に迷ってしまうイッダを制御するため、先日から手首同士を縄で繋いでいるのだ。
睨み合いを始めた二人を不思議そうに眺めた後、ゼトはにっこり笑った。
「仲良しなんだね」
「どうしてそうなる!」
イッダが反発し、いかに酷い扱いを受けているか捲し立てるのだが、幼いゼトにはよく理解できないようで、いつも一緒にいるということは、仲が良いのだと思ってしまうようだ。
ヴァンは子供の反抗にいちいち対応するのも面倒で、腰を上げて再度土岩に向き直った。
イッダとゼトがやって来て、ひと月近く経つ。アリアは何やら忙しそうに頻繁に首都を行き来していたため、ここ数日はイッダと二人で行動することがほとんどだった。その間のヴァンの仕事はもっぱら、イッダのお目付け役と、この地下空間の拡張作業である。
「どうかな。ここは掘れそう?」
クロに声をかけてみれば、彼はさも当然とばかりに鼻を鳴らした。
――おいおい誰に言ってんだよ。土あるところに生物あり。生物あれば俺にできないことなんてないさ。
「じゃあ早速お願いするよ」
軽く受け流すと、クロは雑な扱いを不満そうにしたが、素直に従った。
小さな振動が空気を揺らす。地鳴りと共に、前方の壁面より砂埃がぱらぱらと飛来した後、大きな崩落が起こった。意図したことであるので、ヴァンは微動だにしないが、あまりの轟音にさすがのイッダとゼトも、閉口したらしい。
――どんなもんだ。
「さすがはクロ。助かったよ」
――お前って適当に受け流すの得意だよな。
その言葉すら流してしまってから、ヴァンは再び紙面に視線を落とした。蟻の巣状の設計図が引かれている。人員が増え、この場所も手狭になってきたので、生物に干渉するというクロの力を使い、空間を拡げているのである。図面には地下水脈の概ねの位置が記されており、ここを刺激して崩さないように気をつける必要がある。
土を揺らし穴を掘ることはできるが、崩れ落ちた土や岩の破片は人の手で運び出さないといけないものだから、作業の進捗はとても速いとは言えなかった。
さらに、崩落の危険が高い場所には当然、天盤を支える支柱を設置する必要もある。それでも、アヴィンがクロの力を手に入れるため、ヴァンを囲い込んだのは正解だっただろう。この力は穴掘りだけでなく、一度戦いとなれば、味方にとって大きな力となるだろうから。
「ねえ、スヴァン」
再度ゼトの純粋な声がする。土を運び出す作業に入りたかったが、善良な子供を邪険にはできず、視線を向ける。
「アリアはどこに行ったの。もうすぐ戦争が始まるって本当?」
「それ、誰から聞いたの」
「忘れちゃった。でも、最近スヴァンが壁を壊しているのは戦争の準備のためだって。あと、南の方の王子様が死んじゃいそうだから、こっちに兵隊さんが来るって」
「南……聖サシャ王国は、オウレアス王国には攻めてこないよ。今はね」
「どうして」
ヴァンは言葉を選んでから答えた。
「
「お兄ちゃんとスヴァンみたいに?」
「……そうだね」
イッダが何やら小言を言っていたが、ヴァンは溜息を吐いて、図面を懐にしまう。
「ほらゼト。そろそろおやつでも食べてきたらどうかな。イッダ、もう少しだけ付き合ってくれる」
「俺だけおやつなしかよ」
「後で食べさせてあげるから」
この一か月、子守りばかりだ。アリアがいたとしても、子供にはあまり関わろうとしないため、必然的にイッダと、ことある毎に兄に寄って来るゼトの相手をしなくてはいけない。面倒だと思う一方で、純粋な瞳に微かな癒しを覚える自分がいるのも確かだった。
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