7 孤児院より

――九か月前、オウレアス王国某所――


 子供たちが駆けまわる楽し気な声が響いている。その無邪気な姿を眺めれば、大概の大人は微笑ましさに目を細めるだろう。ヴァンも例外ではなく、束の間の安らぎを覚えていたのだが、それも、もはや聞き慣れた無機質な印象のある女の声が耳に入るまでのこと。


「スヴァン。ここにいましたか」


 手持無沙汰に組んでいた腕を下ろし、声の方を振り返る。艶やかな黒髪が日の光を浴びて、濡れ羽色に煌めく。整った顔立ちが彫像のような彼女は、アリアレッテ。この孤児院に通い、同胞の選抜を任される幹部のうちの一人であり、今ではヴァンの側近兼監視役と言ったところか。


「用事は済んだ?」

「抜かりなく」


 彼女が、腕に抱いていた布を指先で少し捲ると、寝息を立てて安らかに眠る幼子の横顔が覗く。夕暮れ時のような赤毛の、男児のようだ。女人の腕の中に納まる体格を見ても、やっと意味のある会話が可能になる程度の年齢らしい。


 無意識に、ヴァンは視線を逸らす。この程度の年頃の子供を選別するのは常事であるが、彼らの未来を思うと、真っすぐにそのあどけない顔を見つめることができなかった。


 ヴァンの様子など気に留めず、アリアはいつもの無機質な表情で促した。

「今日はもう戻りましょう」


 この数か月、孤児院を回っては養子縁組の仲介人と称し、仲間に引き込む子供を連れて行くという悪事に手を貸している。この行為自体は、十年余年前の岩波戦争後より、アリアの一族の助言により行われていたらしいが、仲間として認められるまでのヴァンはほとんど本拠地から出られなかったため、孤児院を訪れるのは今回で三度目だ。


 よくもまあ足が付かないものだが、仲介人の許可証を持っているのと、何人かに一人は本当に里親を探し引き取らせていたものだから、大々的に疑われることはなかった。それに、些細な疑いの目など、取るに足らない。そのような者、アリアか他の仲間が処分をしてきたからだ。


 将来ある幼子を、反逆組織に無理やり連れ込むような非道、気は進まないものの、彼らへの忠誠心を疑われるような真似はできない。


 この世の全ての者に慈悲を与え、平和を築くことができるのは理想であるが、そのような幻想を本気で追い求めることができるほど、ヴァンは清い心を持ち合わせていなかった。自分が守るべきもののために、それ以外のものを犠牲にすることは、致し方ない。必要悪であるのだと、幾度も自分自身に言い聞かせてきた。


 院長を務める、見るからに温和そうな中年男性の目じりに刻まれた皺を眺めつつ挨拶を済ませ、帰路につく。アリアは彼と面識があるようだが、ヴァンは初対面である。


 当たり障りない会話を二言三言交わした程度だったが、アリア曰く、あれは食えない男だという。おそらく、引き取られた子供の行く先が普通の場所ではないことを察している様子なのだが、こちらの派閥に寄り添うでもなく、反発をするでもなく、ただ中道を保っている。


 もう少し怪しい素振りを見せ始めたのならば、始末することになるだろうと、アリアは表情一つ変えずに語った。そうなると感づいているからこその付かず離れずの態度なのだろう。


 塩の大地がいたるところに点在する北方では、村や町の位置も疎らである。草が育たねば、農業はおろか牧畜もできないし、巨大な水道橋が張り巡らされているため飲用水に困ることはないとはいえ、やはりそこから離れれば人が住むには不便になってしまうからだ。


 この地理的特性が幸いし、やましい孤児院帰りの一行も、人目を憚らず白茶けた大地を進むことができる。塩分に強い種類の灌木が生えるとはいえ、鬱蒼と茂るわけでもなく、背も低いため、誰かに後をつけられる心配もない。通常であれば。


 ――なんかいるな。


 この一年で慣れてしまった、少ししゃがれたような男の声が聞こえ、ヴァンは頷く。聞こえるというのは印象の問題で、実際のところこの声はヴァンにしか届かない。脳内に直接響くようにも感じるのだが、対してヴァンが彼に答える時には、いつも通りに声を発しなければいけないので、事情を知らない集団の中にいる時には不用意に会話もできない不便なものである。


何人なんにんだ、?」


 囁くように返すと、アリアが横目をこちらに向けた。頭の中にいるクロに答えたのだと示すため、人差し指でこめかみを叩くと、いつものことに慣れ切ったアリアは、興味を失って前方に視線を戻した。


 ――そんなにいないぜ。多分一人。ちょっと左の灌木の方を向いてくれ。いや、行き過ぎだ。


 声の主の雑な誘導に辟易しつつも、視線を微調整する。身体を共有しているというのは、雀の涙ほどの便利さと多大な鬱陶しさを伴うものだ。アリアは、急に挙動不審になったヴァンに再度一瞥を寄越し、それから何の前触れもなく、細剣を引き抜いて左の灌木向かって駆け抜ける。一瞬思考が追いついていかなかったものの、正気に戻るや否や、ヴァンは制止の声を上げた。


「アリア、やめるんだ!」


 思いの他鋭く響いた声に、アリアはぴたりと動きを止める。剣先には、灌木の側で腰を抜かしたようになっている丸腰の少年がいた。年の頃は十歳を少し越えた程度か。あわや血生臭い光景が繰り広げられるところだったと思い、頭痛がする気分だ。


「相手が何者かも調べず、短絡的に動くのは良くないよ」


 言いつつ歩み寄れば、アリアは少年と睨み合ったまま二呼吸分ほどの時間を空けてからやっと、切先を逸らし収剣した。ここまで全ての動作は無論、片腕に幼子を抱いての動きであることは特筆すべき事実だろう。


 ――あの姉ちゃんやっぱすごいな。

「そうだね」


 一体どんな体の作りになっているのかなどと言っている声に軽く頷いてから、ヴァンは少年の顔を覗き込んだ。アリアを見上げて怯え切っていた少年は、ヴァンを見てさらに身を震わせた。それでも、怒りを内包した視線は鋭い。


「どこからついてきたんだ」


 来た道に目を向ければ、灌木こそ疎らだが、岩は転がり、半ば枯れた草が辛うじて残る部分もあるため、小柄な子供の身体ならば、孤児院辺りからずっとついてくることは可能だったかもしれない。


「君の家からずっとついて来たのかな」


 意識して優しく言ってみたが、彼の赤みがかった色合いの瞳は揺れもしない。その夕日のような色彩にふと思い至り、アリアの腕の中の幼子を見遣る。騒がぬよう、軽い睡眠薬入りの水を飲ませたため、彼はアリアに抱かれて安らかな寝息を立てるだけだった。


「……兄弟?」


 幼子の頭髪と同じ色合いの瞳だ。目の前で腰を抜かした少年の方が、茶色味の強い髪色だったが、ヴァンの予想は当たったようだ。少年は意を決して声を上げた。


「そうだ! お前ら、弟をどこに連れて行くんだ」


 どのように対応しようかとアリアに視線を遣るが、彼女はだんまりを決め込んだようだ。孤児院に通っている割に、この女は子供と接することが得意ではなかった。ヴァンは仕方なく、溜息交じりに腰を屈めて視線を合わせる。


「新しい家族のところに行くんだ。残念だけど君は連れて行けない」


 少年が、痛みを感じた時のように鋭く息を吞んだ。思わずこちらの胸が痛むような幼い表情だったが、同情を覚える間際で唾を吐きかけられ、哀れみは霧散した。


 ――うお、こいつ……殴ってやれ、ヴァン。


 気持ちとしては手が出そうだったが、まさか舐めた真似をされた程度で年端もいかぬ子供に手を上げるほど、落ちぶれてはいない。心を落ち着かせるために三つ数える必要もなく、拳で頬に付着した唾を拭ってから、少年の目を見据える。彼は肩を震わせた。そんなに恐ろしい顔をしたつもりはないのだが。


「……水に流してあげるから、早く家に帰りなさい」

「嫌だ!」


 今度は唾を吐いたわけではないが、語気荒く言ったものだから飛沫がかかる。ヴァンは溜息を吐いて立ち上がって少年から距離を置いた。上から見下ろせば、その姿はより小柄に見える。よく観察すれば、指先が白くなるほどに強く、その辺で調達したと思わしき木の棒を握りしめていた。武器のつもりか。


「駄々こねてないで、戻るんだ。でないと」

「もう結構です、スヴァン」


 痺れを切らしたアリアが冷徹な声音で言う。


「どうせ戻っても、なにやら騒ぎ立てられるのが関の山。それならばここで処分するしかないでしょう」

「いや、ちょっと待って」


 仲裁に入ろうとするも、組織の安全のためにはそうするのが最善だろう。命の危機を察した少年は怯えつつも、捨て身になったらしい。腰は抜けていなかったのか、子猫のように飛び出し、棒を振り回す。粗末な即席の武器は呆気なく、アリアに叩き落された。


「この、人攫い!」

「煩い口ですね」


 すっと目を細めたアリアは、山猫のように獲物を見据える。少年はそれでも引かなかった。


「俺は、母ちゃんと約束したんだ。ゼトを守るって!」

「……あなたごときに誰も守れるはずがありません」

「そんなの分からないだろ」

「それなら、どうぞお試しを」


 アリアが抜いた細剣が、銀の軌跡を描いて、目にも止まらぬ速さで少年の頸を狙う。制止も間に合わない。もちろん、少年には太刀打ちする術がない。枝も遠くに転がって行ってしまったし、そもそもそんな武器では勝負にならないのだ。


 次に眼前に広がるのは血飛沫と思ったが、想定外なことにアリアの動きが止まる。剣は少年の鼻先を少しだけ切り裂き、停止した。


 アリアと少年は暫し見つめ合う。少年は己の命が奪われそうになっている間も、強い眼差しで敵を睨むことはやめなかったようだ。


 しばしの沈黙の後、アリアは不意に興味を失ったような仕草で、踵を返す。混乱したのは何も少年ばかりではない。


「アリア、これは」

「何しているのです、スヴァン。早くその子を連れて来てください」

「え?」

「私たちの目的を忘れましたか」


 意図が掴めず、首を傾けるヴァンに、彼女は無機質な声で言った。


「彼も連れて行けば良いでしょう。弟のためならば、優秀な戦士になるはずです」


 呆気にとられ、ヴァンと少年はアリアの長身の背中を目を丸くしつつ見つめたのだった。

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