5 婚約の勧め③
しばらく石畳の道を進むと、その店に辿り着く。赤い屋根の可愛らしい、一軒の邸宅のような外観の店だった。
庶民から貴族まで利用する場所らしく、出入りの扉こそ一つのみであるが、一階は賑やかにいくつかの客席が配置され、二階と三階には、それぞれ個室が用意されているらしい。通されたのは、三階の個室。左右あるうちの左の扉が開き、王宮の一室に引けを取らないのではないかと思えるほど上品な内装が目に入る。
引かれた椅子に腰掛け、紅茶を注文する間、騎士たちは部屋の隅に離れていった。丁度食器置き場の横であり、女給が忙しく出入りする場所であるから、物音もあり、自然と彼らの耳を塞ぐはずだ。この距離ならば、声を張らなければ会話の詳細までは彼らに届かないだろう。そこまで想定した部屋の造りになっているのだ。
目の前にポットとカップが給仕され、赤い液体が並々注がれて、芳醇な香りが鼻を通り抜けると、自然と頬が緩んだ。その様子を見ていたワルターの表情も和らぐ。
「いかがですか。ここの茶葉は南方の温暖な農園で、特別栽培している上質な種類ということですが」
「とても良い香り。心が落ち着く気分です」
「それは良かった。実は、あなたがお茶好きと聞いたので、いろいろと調べてみてこの店を見つけたのです」
「あら、元々はお一人でお越しになるご予定では?」
ワルターは軽く笑って紅茶を飲んだ。
「ご想像にお任せします、殿下」
わざとらしい問答に、エレナは呆れて肩を竦める。それでも、自分の嗜好を知った上で店を探してくれたことは、素直に嬉しいものだった。
「いずれにしても、ありがとうございます」
「どういたしまして」
ややくだけた風に片目を閉じるワルターの整った容貌を眺め、眼前のティースタンドから柑橘の果汁が練り込まれたスコーンを口に運ぶ。星の宮の厨房長が作ってくれる焼き菓子にも引けを取らない味だ。
王女として擁立されても、
思えば、一年半ほど前、エレナが王女として迎えられた時点では、当然のようにひと悶着あった。敬虔な星の民の中には、神聖な
状況は王太子の体調不良により一変する。イーサンが体調を崩しがちになったのは、その死より一年ほど前だっただろう。王太子の状況は王宮内の機密情報とされてはいたが、国家行事に欠席するようになったため、国民の不安に満ちた噂を止めることはできなかった。一部の娯楽新聞がそれを報じ始めると、イーサンの状況は暗黙の了解のように知れ渡った。
王太子が死すれば、次に
「どうかされましたか」
ぼんやりと物思いに耽りつつ、ワルターの顔を見つめてしまっていたことに気づき、慌てて視線を手元に移す。
「いいえ、失礼いたしました」
「そうですか? なにか考え事でも」
優しく微笑むその表情に嘘偽りはない。それでも、エレナが王女となってから急に接近してきた彼と、その一族には下心しか感じないのが事実である。
「少し、昔を思い出しておりました。あなたと初めてしっかりお話したのは、一昨年の豊穣祭の時でしたか」
「そうですね。もう一年以上も前ですか」
なんだかんだ、もうそんなに経つのかと、時の流れの速さを痛感する。思えばあの時から彼の一族は半ば強引だった。
秋の豊穣祭を執り行うのは、「富、豊穣、友愛」を司る
岩の宮でも舞踏会が開かれて、エレナも王女として初めて参加をしたものだ。当時より、王女の気を引こうと近づいてくる者は多かったが、取り立てて強引だったのは、レイザ公爵家の面々だろう。それでも、傍から見れば少しも嫌味なところはなく、とても自然に外堀を固められ、気づけば最初のダンスをワルターと踊ることになっていたのだった。
「以降、あなたとのダンスをせがむ輩が多いようで、私としてはやきもきしているところです」
とはいえ彼は、名門公爵家の子息である。正直なところエレナの婚約者候補、つまり時期王配として最も有力視されているのは彼であり、全く危機感など抱いてもいなそうな様子でサンドイッチをつまんだワルターに、呆れる思いだ。
と、その指先を見て、エレナは首を傾ける。
「閣下、ケーキは召し上がらないのですか」
ティースタンドの上からは、サンドイッチだけが姿を消し、甘味の物は手が付けられていないようだった。指摘してみると、無意識の動作だったのだろう、眉を上げてから、いつも隙のない紳士を演じる彼にしては珍しく頬を掻いた。
「いや、失礼。最近食べ過ぎてしまって。体形が崩れてきたので、砂糖や脂は控えがちなのです」
思ってもみなかった回答に束の間言葉に詰まるが、ワルターの頬がやや朱に染まり始めた頃、堪え切れずに笑い声が出てしまう。口元を手で覆ったものの、隠せる程度の仕草ではなかった。
「全くそのようには見えませんが……。あなたがそう思われるのなら、違う物を注文されれば良かったですね。私に合わせてくださったのでしょう」
「……せっかくなら、同じ物が良いかと」
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