2 アレスタ寺院にて


 リュアンとイッダが謁見に訪れた数日後、エレナは王家の墓地を兼ねる、アレスタ寺院を訪れていた。戴冠式、婚姻や葬儀など俗人のための儀式を執り行う場所であり、今では形骸化しているとはいえ、岩の神サレアの教会としての役割も持つ場所だ。


 王宮の目と鼻の先にあるのだが、気軽に街を出歩くことは許可されなかったため、岩の王サレアスの紋を掲げた馬車で移動し、付き添うイアンの手を借りて、下車する。侍女に馬車の中で待つように告げてから、エレナはイアンだけを伴って寺院に足を踏み入れた。王族専用の入り口から入ると、一部屋抜けて階段を下りたすぐそこは王家の埋葬地である。


 二人で向かおうとしたのだが、階段の前で、イアンが不意に脚を止めた。どうしたのか視線で問えば、彼の青い瞳が揺れた。


「私は行けません」

「またそんなことを言って」


 何度連れてきても、彼は同じように頑固に拒み、地下に下ろうとはしなかった。王族の墓地であるので、もちろん一般人が気軽に入れる場所ではないが、王太子と王太女に仕える騎士が脚を踏み入れることを禁じられるほどではない。そもそも、エレナが許可をしているのだ。


「いつまで意地を張るつもりなの」

 呆れて言ってみるのだが、イアンは頑なだ。

「申し訳ございません、殿下」

「……わかったわ」


 硬い表情できつく口を閉ざしたイアンに小さく溜息を吐き、一人で段を進む。壁面の窪みに揺れる蝋燭の光が心許ないが、歩き慣れた道ゆえ、足を踏み外す危険などない。古い造りのため一人通り抜けるのがやっとの道幅の狭い螺旋階段を抜ける。最下層に設えられた扉の鍵穴に、岩の教会の長も兼ねる星の女神セレイアの大司教から預かった鉄製の鍵を差し込んだ。扉が開くと、暗闇の中から微かに焚かれたこうの匂いがした。


 エレナは慣れた手つきで燭台に火を移して回り、手近なところをひと通り灯すと、最も新しい墓の上に安置された聖人の像をぼんやりと見上げた。墓の主に捧げられたのは、十二聖人のうちの二人。知恵を司る賢者と慈愛を司る聖母だった。いつも思慮深く、死の間際まで愛憎の狭間でもがき苦しみ、結局のところ愛に包まれ安らかにこの世を去った彼を象徴するに相応しい。


 彫像は大理石から打ち出され、聖人の衣服の襞が風にたなびきそうなほど、精緻な細工だった。墓に眠るべき人物が急逝してから製作されたため、先日出来上がったばかりだという。エレナもこの日、初めてこの石像を目にした。


 胸に込み上げるものがあり、唇を嚙んで気持ちを落ち着かせてから、指を組んで瞼を閉じる。


星の女神セレイアの御名において、其に安らぎの契約を。岩の神セレアの名代にて、安寧の地に富あらんことを」


 しばしの祈りの後、薄っすらと目を開けば、燭台の揺れる灯に照らされて、聖人たちがこちらを見下ろしている。その優しい表情に、エレナは故人の面影を見た。


「殿下。……お兄様」


 死の間際まで、王太子はエレナに兄と呼ばれることをあまり快く思っていなかった。兄のような人としてイーサンと接していたし、彼もエレナを妹のように思ってはいただろうが、実際に血縁があると知れば、様々なしがらみが影響し、関係性も豹変するものだ。


 エレナ自身も、己が王家の一員であるということを受け入れるまでには時間を要したし、畏れ多くも王太子を自発的に兄と呼ぶことはなかった。


 落馬の事件以降、イーサンの態度がよそよそしく感じたのは、何もエレナの思い違いではない。後から聞いた話だが、イーサンは以前より、エレナの父親について知っていたのだという。その上で、何も知らない体で王太子と星の姫セレイリとして、接してくれていたのだ。


 それでも、自身が命を狙われ身体に不自由を背負えば、後継の断絶を阻止すべく父王がエレナを嫡子として迎え入れることになるのは、想像に難くない。そうなれば、不自由な王太子の存在意義は、いかほどか。そうでなくとも、星の姫セレイリ岩の王サレアスの血を引くというのは、政治的にとても重要な意味合いを持っていると言えたのだから。


 幼少の頃より帝王学を修め、この国を継ぐべくして育った王太子が、岩の王サレアスの後継となる権利を奪われることを不安に思うのは、当然のことだった。エレナにその気があろうがなかろうが、関係のないことだろう。


 それでも心根の優しいイーサンは、幼い頃から慈しんできた妹を、心の底から疎ましく思うことなどできなかったのだろう。エレナに冷たく当たる度、自己嫌悪に浸り、精神を蝕まれる。気分転換として、怪我のため動かぬ脚を引きずり部屋の外に出ようものならば、周囲の憐憫の視線を一身に受けねばならない。自然と、王太子は自室に閉じこもるようになった。


 側近であるイアンは蟄居を解かれた後、イーサンの側に付き添い、心を支えようとしたが、それも無駄に終わってしまった。イアンが頑なに王太子の墓を訪れないのは、主君であり友人でもあるイーサンを救うことができなかったことで、自分を責めているからだ。


 怪我の予後も芳しくない上に、陽を浴びることもめっきりと減り、鬱々とした気持ちで日々が過ぎるに任せる生活の中、王太子は体調を崩しがちになる。二か月前、大雪の降りしきる中、高熱を出したイーサンは、遺言じみた言葉をいくつか残し、あっけなく帰らぬ人となってしまったのだ。


 イーサンの死の大きな理由の一つは、エレナの存在だっただろう。イアンは自分を責めるけれど、本当に責めを負うべきはエレナであり、その父である岩の王サレアスのはず。それでも最期にイーサンは、朦朧とする意識の中、家族に謝罪を述べたのである。


 父王には、これまでの感謝と、国を背負うことができなくなった心からの詫び。何より、息子に先立たれる苦しみを与えてしまうことへの、心からの謝罪を。すでに死した母には、産み落としてもらったこの血肉を無為に浪費し、何も成し遂げずに死してゆくことへの無念。そして妹には、たった一人の兄妹を心の底から受け入れることができなかった詫びと、どうか全てを赦して兄と呼んでほしいという、最期の願いだった。


 氷のように冷たい手を握り、初めてその唇に兄という言葉を乗せて呼びかければ、イーサンは嬉しそうに微笑んだのだった。彼が理想とした、慈愛に満ちた王の姿を垣間見た気がした。それからしばらくして、兄は安らかに眠りについたのだった。


 王太子の死からまだ、二か月程度しか経っていない。心に空いた穴は少しも塞がらないが、大切なものを失う度、エレナの心は強くなるようだった。イーサンを、ヴァンを奪ったのはオウレアスの反体制派。その戦力の主軸が青い目の魔人だというのであれば、その男はこの世で最も憎むべき人物のうちの一人だ。

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