第三幕 分かたれた道の中で

1 亡命者

 黒地に銀の刺繍で描かれた宝玉の紋が、波の国から訪れし亡命者を見下ろしている。岩の宮に通うようになり一年と半分も過ぎれば、壁掛けも豪奢な玉座もそこに座す王も、全てが日常の一部となる。人間の適応力に感心するばかりだ。きっと、彼らもしばらくすれば、この地に馴染んでいくのだろう。


「お久し振りです、星の姫セレイリ……いえ、王太女殿下」

「どちらでお呼びになっても構いませんよ、リュアン卿」


 本当にどちらでも良かったのだが、生真面目に困惑した様子の騎士は、小さく咳払いをした。


「では、殿下と。殿下、此度はこのような寛大な措置、誠に感謝いたします」

「陛下のご意思ですから」


 玉座の上で黙りこくる王を視線で促せば、彼はやっと固い口を開いた。


「王太女の助言だ」

「畏れ多くございます」


 言葉足らずなものだから、結局こちらに話が戻って来てしまう。いかにエレナの口添えがあったとしても、緊迫する情勢下、オウレアスの重鎮を亡命者として受け入れるなどという思い切った決断は、王の赦しなく進む話ではない。


 宮廷内には、このことに反発する者も一定数いたが、最終的に、敵を知るための手段として彼らを受け入れることが王の勅命で決定してからは、表立った混乱は生じていない。聖サシャ王国内では、岩の王サレアスの権威は盤石この上ないのである。王を決断せしめた背景には、北方に病巣のように広がる反体制派への強い憎しみがあったことは言うまでもない。


 反体制派の取り締まりを波の王オウレスに強く要請したものの、芳しい結果が得られておらず、聖サシャ王国としても、これ以上手をこまねいている謂れはない。そんな折に訪れた、敵国の情報を持つ亡命者。受け入れたのは、必然だったのだろう。


 それにしても、あの紫波騎士の副団長が、こうして岩の王サレアスに助力を請いに訪れる日が来るとは、なんとも複雑な気分だ。その姿を見ると当時の思い出が蘇り、塞がったはずの心の傷が開くような感覚に陥る。


 リュアンは静かに壇上のエレナを見上げて、やや緊張を緩めたようだった。彼も、波の宮での城内観光を思い起こしていたのかもしれない。


「お変わりないようで何よりです」

「ええ、あなたも……」


 一方、頬を緩める騎士とは対照的に、その隣で膝を突く少年は、入室から現在まで硬い表情を緩めないが、無理もない。急に異国に連れて来られたばかりでなく、彼が生まれる前後には敵国だった国の王を眼前にしているのだ。


 さらに、彼らが信用に値するのか測りかね、万が一に備えて黒衣の騎士が壁際を埋め尽くしている様は、圧巻。警戒する様子の全くないリュアンが不思議なほどである。


 エレナは、少年の意思の強そうな茜色の瞳を見つめた。真っすぐな視線を向けられても、彼は怯えはしなかった。ただ、この世の全てを恨むような暗く、強い眼光を放っている。それは、誰に向けられているのだろうか。


「それで、彼がの側にいたという少年ですね」

 問いかけに、リュアンが頷く。

「ええ。サンセイッダと申します。……イッダ。ご挨拶を」


 リュアンに軽く小突かれても、イッダはこちらを睨むように見上げるだけだ。


「イッダ」


 再度強く呼ばれて、少年は唇を噛んでから気持ちばかりの会釈をした。


「サンセイッダと申します。しばらく彼の側に仕えていました」

「そう。よく来てくれましたね」


 意識して柔らかい声で応え、エレナは少年の横に移動する。幼い身体が強張ったが、エレナが視線を合わせるために軽く屈むと、少しだけ落ち着いたようだった。


「サンセイッダ。イッダと呼んでいいかしら。怖がることはないわ。私たちはあなたの味方よ。信じられないのなら、味方とまで思わなくてもいい。でも、敵は同じ。……教えて。青い目の魔人かれのことを」


 イッダの目に、一層暗い光が宿った。年の頃は、十二、三歳だろう。いや、意思の強い表情のおかげで大人びて見えるだけで、本当はもっと幼いかもしれない。イッダは、力んだ表情で口を開いた。


「噂の通り、あの人は不思議な力を使います」

 落ち着いた語り口だが、声の圧は強い。

「有名なのは、手も触れず地面を掘り返したり、割ったりする力ですよね。どうやってやっているかのは彼と、偉い人たちしか知らないと思います。俺には


 エレナは頷く。確かに、噂通りだ。青い目の魔人の話が知れ渡ったのは、この数ヶ月ほどの間だった。最初は、オウレアスの首都が何者かに包囲された、という知らせが岩の宮に届き、よもや紫波騎士団が、戦略的に有利な籠城戦ごときで惨敗することはないだろうと静観しているうちに、陥落の知らせが舞い込んだのである。どのような大軍が首都を取り囲んだのかと調べさせたが、なんと騎士団の三分の一にもならない、寄せ集めの軍だったという。


 それではなぜ、彼らは勝利したのか。答えは、青い目の魔人とあだ名される一人の男にあるのだという。彼が大地を揺るがし、土を跳ね上げて敵方の動きを封じてしまうのだから、満足に戦うこともできない。結局兵糧攻めに遭い、疲弊したところで、波の王オウレスが城門を開き、無血開城となったのだった。最後まで波の王オウレスに仕えたリュアンたちも、こうして聖サシャ王国に亡命するしかなかった。


「その彼に弱点はないの」

「思い浮かびません。それこそ剣技も悔しいほど素晴らしいのです。訓練をつけてもらいましたが、どんなに才能ある子ですら、彼にほんの少しでも触れた人はいないんです」


 弱点なんてあるのであれば、誰かが青い目の魔人を止めただろうから、これは真実だろう。諦めたエレナとは対照的に、これまで黙りこくっていたイアンが、思案気に口を開いた。


「よく思い出してくれ。魔人と呼ばれてはいても、人間なのだろう。我々と同じ血肉を持つのであれば、身体自体は弱く脆いはず」

「そうですね……そういえば」


 イッダは何度も頷きながら、イアンを見上げた。


「あの人、犬に噛まれて怪我をしたことがあるんです」

「犬? 人間では全く歯が立たないのに?」


 熟練の騎士があっけなくやられてしまうほどの男が、犬に怪我をさせられたという話は、なんとも滑稽だった。比喩かと思ったのだが、どうやら本当に獣の犬らしい。


「はい、犬です。彼の側近が野犬に襲われた時、多分側近に怪我をさせてしまう可能性があったからだと思うんですが、不思議な力を使わなかったんです。一度は避けても野犬ですから、人の動きとは比になりません。いつものように地面を動かせば良かったのに……。もしかしたら、距離が近すぎたのかな」


「距離か」

「もしかしたら、足元近くを揺らすと危険なのかもしれません」


 イッダの言葉に、リュアンが唸った。


「その線はあり得ますね。言われてみれば、青い目の魔人と剣を交わした者はほとんどいません。もしかしたら、間合いに入ってしまえば、あとは純粋に武術が上回れば」

「ですが確証はありません」


 話に聞くだけで危ない魔人とやらの元に、精鋭の騎士を送ると提案しかねない流れに、思わずエレナは水を差す。リュアンはこちらに視線を向けて、取り繕うように微笑んだ。


「ええ、殿下のおっしゃる通りです」

「ですが、万が一奴が聖サシャ王国に攻め込んでくるようであれば、推察であっても、試す価値のあることです」


 言い募るイアンの様子に、不安が胸の中で湧き起こる。自ら先陣を切って青い目の魔人を倒しに行くとでも言い出しそうだ。


「イアン、それはその時に考えればいいことだわ」

 強く言えば、彼はそれ以上の主張は控え、軽い一礼の後に口を閉ざした。


 ともかく、糸口は見えた気がした。不確かな情報で国民を危険に晒すことはできないが、背に腹変えられない状況になれば、イアンの主張どおり、誰かが可能性を試しに行く必要があるだろう。それでも、差し迫った状況になるまでは、円満に解決できる方が良いに決まっている。そもそもまだ、新王がサシャに宣戦布告すると決まった訳ではない。


 属国の王が内戦により退位させられ、さらにその主犯が王太子に害をなした組織の面々であると聞けば、岩の王サレアスとして黙っていることはできない。しかし戦いの手段は、何も武力だけではないのだ。


「もしその推測が真実に近しいとすれば、こちらが情報を得ていることを匂わせることに効果があるかも知れませんね」


 エレナが希望を持って口にするが、リュアンの表情は暗い。


「一理ありますが……逆にその対策を練られてしまう可能性もあるかと」

「それもそうね」


 浅慮に過ぎる自分に呆れ返るのは毎回のことである。大局的に考えれば、少数の犠牲で多数を救うことができるのであれば、イアンや精鋭の騎士を派遣して、青い目の魔人を暗殺しに行くのが合理的かもしれない。だがそれを考えるとどうしても、あの日の後悔がエレナを縛り付けるのだ。ヴァンをシャポックラントに遣わしたこと……その自責の念が、自覚している以上にエレナの行動を制限していた。


「ふむ、まあ具体的な策は宰相及び騎士団長と共に練ろう」


 玉座の上の岩の王サレアスおもむろに口を開き、謁見室に重厚な声が響くと、一同の議論は止む。王者の威厳とでもいうべきか。


 このまま終話しても良かっただろうが、後味の悪い雰囲気を払拭したく、エレナは敢えてもう一度、イッダに微笑みかけた。


「そういえば、青い目の魔人は仲間内で何と呼ばれているの。まさか魔人とは呼ばれていないのでしょう」


 イッダはだいぶ緊張が解けたようだが、エレナを見る目は、変わらず鋭い。


「はい、もちろん。青い目の魔人というあだ名をつけたのは、外の人たちですから」


 彼は少し遠い目をして、それから少年にとってはすでに懐かしさすら感じ得る名前を口にした。


「スヴァン。彼はそう呼ばれています」

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