16 それぞれの絆

 目の前がぐるぐると回っている。祝賀会では、何を聞いて何を話したのか、ほとんど記憶にない。会場の一段高い場所に設えられた椅子に座り、愛想笑いを頬に張り付かせ、お世辞を受け流す。身体に染み付いたことだったので、深く考えずとも自然にこなすことができたのは幸いだ。


 動揺した中でも、侍女の仕事は的確で、エレナの装いを褒めてくれる令嬢もいたと思うが、その言葉も社交界の噂話も、エレナの頭には残らなかった。


「皆、そう星の姫セレイリを取り合うな」

 頃合いを見て言ったのは、岩の王サレアスだった。


「祭祀を完璧に成し遂げたこと、星の姫セレイリが成人し、天災のない平穏な世が続いていることは、確かに祝うべきことだが、あれも人の身を持つ者。休息も必要であろう」


 静かな視線がこちらに注がれる。微かに気遣いの色が感じられ、王も例の贈り物の件について報告を受けたのだろうと察した。せっかくの心遣いを無駄にする理由はない。エレナは頬笑みを絶やさず、壇上に戻り、一同に膝を折る。


「それでは、陛下のご厚意に甘えて、そろそろ失礼させていただきます。皆さま方はこの後もごゆっくりご歓談を」


 日中に日蝕の儀を執り行った直後であるから、星の姫セレイリの疲労は容易に想像できる。会場の誰もが不自然さなど感じることなく、主賓の退出を見送った。


 広間を出て、重厚な扉が背後で閉じると、膝から力が抜けそうになるのを、必死で堪える。滑るようにハーヴェルが横に現れ、腕を貸してくれた。


「ハーヴェル、私、おかしくなかったかな」

「とても立派でした」


 胸に詰まる物がありそうな声音で返答があり、エレナは唇を噛み締める。震えそうになる脚を叱咤し、遠回りにはなるが回廊を抜けて星の宮に入る。自室の扉が開き、見慣れた白と金を基調とした室内が見えると、心の堰が崩壊するのを感じた。背後で扉が閉まると同時に、ハーヴェルの胸に飛び込んでいた。


 さも当然のように、彼は抱きしめて背中を撫でてくれる。まるで父親のように、幼い頃からエレナを慈しんでくれた人だ。ヴァンという不肖の弟子を育てた師でもあるハーヴェルには、エレナ同様に辛いものがあるだろうに気丈に振舞っている姿には痛々さもある。


はやっぱり、そういうことなのかな」


 返答はない。それが回答のようなものだった。


 星の騎士セレスダの徽章は、任期が終われば返還される。ハーヴェルですら、エレナの母親が亡くなった後に神殿に返し、ヴァンが騎士に就任するまでは、星の騎士セレスダの徽章を身に着ける者は他にはいなかったのだ。だからあれが、精巧な贋作でもない限り、ヴァンの持ち物としか考えられない。似せて作るにしても、そもそもの本物を持っているのはやはりヴァンなので、模造品の見本となり得る徽章もまた、贋作師の手元には存在しないのだ。


「止めるべきだった。ヴァンを北に行かせたのは私よ。私が命じなければ」

「エレナ様、ひとまず座りましょう」


 促され、ソファに深く座る。ハーヴェルが何か指示をしたのだろう、しばらくすると侍女がハーブティーを持ってきてくれた。普段から飲み慣れたその香りに、心が少しだけ落ち着く。身体の芯から震えるような寒気は、徐々に和らいでいった。


「取り乱してごめんなさい」


 カップで両手を温めながら視線を向けると、敢えて隣に腰掛けてくれたハーヴェルは小さく首を振った。


「いいえ。むしろ良く、祝賀の間耐えてくださいました」


 優しく言われると、涙が浮かんでしまう。鼻の奥がつんと痛んだが、唇を噛んで我慢した。


「一か月です」


 ハーヴェルが不意に言った意図がつかめず、目線で続きを促す。


「一か月、ヴァンを探しましょう。あれだけでは、生死が不明ですから。その間は、私があなたの騎士になります」


 奇しくも、この年は日蝕の年。星の騎士セレスダ選抜を行うことが望ましいのは月蝕の年だが、致し方ない場合は日蝕の年に行うこともあった。ヴァンが殉死ということになれば、このまま選抜の準備が進められてしまうだろう。そうなれば国葬が催され、死者を捜索するために人を遣わすなど、できなくなってしまう。


「でもハーヴェル。家族は」

「たったひと月のこと、妻子も理解してくれるでしょう」


 星の騎士セレスダは常に星の宮に滞在する必要があるため、彼の申し出を受け入れれば、妻子ある男を家族から引き離すことになってしまうのだ。


「気持ちは嬉しいけれど」

「それであれば私の忠誠を受け入れていただけますか、エレナ様」


 真摯な色の眼差しを一身に受ければ、頷くしかない。正直、エレナ自身にとってはありがたさしかない提案である。けれどどうして、彼はエレナを思ってくれるのだろう。ずっと、胸に引っ掛かっていた。彼は、エレナを恨んでいるはずではないだろうか。


「私のことが、本当は憎いでしょう」


 無意識に口を突いて出た言葉に、自分が一番驚いた。ハーヴェルが息を吞む音が聞こえるようだった。その緑色の瞳を見据え、言葉は止まらない。


「お母さんは、私を産まなければ今もまだ生きていたはず。ずっと、星の姫セレイリが身を捧げるような大きな天災も起きていないから、歴代で一番長生きをした星の姫セレイリになっていたはずよ」


 言っても周囲を困らせるだけなので、ずっと心の奥に仕舞い込んで、メリッサにも吐露したことのない心の内だった。


「ハーヴェルはお母さんの騎士だもの。今もずっと。心の中ではそうでしょう」


 ハーヴェルは言葉を選ぶように何度か口を開きかけたが、最後に小さく溜息を吐いた。


「そんな風に思っていたのですか」

「だって、私のことを星の姫セレイリと呼んだことがないもの」

「……確かに、私にとって星の姫セレイリは、エアリア様、あなたの母君だけです。ですが、それとこれとは別の問題です」

「どう別なの」


 ハーヴェルはエレナの瞳を見つめ、少し頬を緩めた。生き写しだというこの顔に、彼の星の姫セレイリを重ねたのだろうか。


「エアリア様は、あなたを心から慈しんでいました。あの方の大切な人は、私にとっても大切です。これ以上の理由が必要ですか」


 昔を思い出したのか、少し目を潤ませた騎士に、エレナは鼻を啜る。


「どうして、そんなにお母さんを大事に思えたの。好きだった?」

「もちろんです。心から敬愛していました。星の姫と星の騎士わたしたちの絆は、神によって結ばれるものです」

「そうね」


 頷いてから、ハーブティーをまた一口含む。鼻腔から、優しい香りが通り抜けていった。それから、騎士の顔を眺める。ずっと聞いてみたいことが、もう一つだけあった。


「ハーヴェル」

 呼びかけると、優し気な瞳がこちらを向く。エレナにとって、彼の眼差しは幼い頃から安心の象徴のようであった。

「私のお父さんはあなた?」


 軽く眉を上げ、それから彼は首を横に振る。

「それはただの噂です。家族を持つ前は、エアリア様は私の全てでした。ですが敬愛の気持ち以上のものはありません。それが星の騎士セレスダの教えですから」

「そんな教えがあるの」


 もし教えがなかったら? と続けて聞こうかと思ったが、それを察したのか彼は答えない。エレナとしても、もっと気になることがあったので、それを聞く機会はなくなってしまった。


「じゃあ、お父さんについて知ってる?」

「いいえ」

「そんな訳ないじゃない。一日中側にいたでしょう」


 星の騎士セレスダの仕事を身を以って知っているエレナには誤魔化しはきかない。押し黙った後、ハーヴェルは諦めたように頷いた。


「ええ、そうですね。知っています」

「誰なの」

「私の口からは申し上げられません」

「あなたが教えてくれなければ、他の誰が教えてくれるのよ」


 しかしハーヴェルは予想外のことを口にした。

「もうしばらくすれば、公になるでしょう」

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