12 距離感


 王太子が言葉を発した。その知らせがエレナの元に届いたのは、ヴァンが再度北に向かって、五日経った頃だった。


 目を覚ましてもただぼんやりと虚空を眺めるだけ。声をかけても反応は薄く、それでも食事を差し出せばゆっくりと咀嚼する。そんな様子のまま、一生元の聡明な王太子は戻らないのではないかと不安を抱いていたが、良い知らせを聞いて、エレナは星の宮を飛び出した。


 急く心を宥めつつ、星の宮と岩の宮をつなぐ庭園を早足に進む。幼少の頃であったら、間違いなく花々の小道を駆け抜けていただろうが、さすがに周囲の目があるので、それは控える。それでも衣の裾を絡げながら足早に進む星の姫セレイリの姿からはやはり、決してお淑やかとは言えぬ彼女の本質が滲み出ているようだった。


 イーサンの休む部屋の前には、いつも通り精鋭の騎士が立っていたが、もちろんイアンの姿はない。王太子が正気を取り戻したところで、彼の謹慎も解かれれば良いのだが。エレナは騎士と侍従が引き留める間もなく、自らの手で扉を開いた。


 室内には、傷口を清潔に保つための薬品の臭いが微かに漂っている。突然の来訪者に驚き、王太子が目を丸くしてこちらを見ていた。その横には、何等かの会話を交わしていたらしく、白髪の混じる宮廷医長。こちらもまた口を開いたまま、驚きを露わに肩越しに振り返った姿勢のままだ。


 彼らの様子を眺め、今更ながら、自分の無礼に肩を窄める。慌てて膝を折って、許しを請う。


「申し訳ございません、殿下、先生。お話中でしたとは」


 驚きがひと段落すると、先に動いたのは宮廷医長だった。常日頃愛想が良いたちではない彼は、にこりともせず、一歩寝台から離れる。星の姫セレイリに向き直り、無感動な一揖を寄越した。冷ややかな反応にも見えるが、なにもエレナの非礼を咎める意図があったわけではなく、普段からこのような様子なのである。


「殿下、それではまた後程参ります。くれぐれも安静になさってください」

「ああ」


 力のない声ではあったが、しっかりと頷くイーサンに、涙が込み上げてくる。この安定感のある低く優しい声を、もうずっと聞いていなかったような気がする。涙ぐむエレナの横をやや低頭して通り過ぎ、宮廷医が退出して扉が閉まる音がすると、もう堪え切れなかった。


「殿下、良かった、本当に良かった」


 起き上がれないイーサンの横に膝を突き、清潔なシーツに包まれた左腕の辺りに、顔を埋める。幼い頃から慣れ親しんだ王太子の匂いに包まれる。まだ驚きの中にいたらしいイーサンは、その頃になってやっと苦笑交じりに言った。


「大げさな」


 言いつつも、優しく髪をなでてくれる手は、昔から変わらない。ひとしきり安堵の涙を流した後、徐々に羞恥心が込み上げるが、生まれた頃より兄妹のように過ごした仲であるから、お互いの間に気まずい空気などない。


 泣き腫らした自分の顔が相当酷いものであることは容易に想像できたが、躊躇なく顔を上げる。イーサンの青の瞳に正面から観察されても、不快には感じなかった。


「殿下、本当に急に良くなって。私、もう一生お話できないかと」

「縁起でもないことを」


 口の端を少し持ち上げたイーサンだが、表情は硬い。言葉も少ないが、昨日までは声を出すこともできぬほどだったのだ。この快復ですら奇跡的なのだから、明朗な言葉など出なくとも仕方がない。イーサンの態度は、事故の後遺症によるものだとばかり思っていたし、それも理由の一端ではあったのだが、他にも原因があったということは、この時はまだ知る由もなかった。


 相手が話せないのであればこちらから、とばかりに、エレナは近況を告げる。


「黒幕の捜索は進んでいるようです。陛下が激怒されて黒岩騎士を国中とオウレアスに遣わせて、きっともうすぐ手がかりが掴めるはずですよ。あ、イアンにはお会いになりましたか。謹慎を受けているのです。早く殿下のお側に仕えたいことでしょう。彼は悪くないと、陛下に進言してください。それから」


 次々と捲し立てていると眼前に青白い手がひらりひらりと振られ、意図を察して口をつぐむ。怪我人に対してかしまし過ぎたか。


星の騎士セレスダは」


 エレナが一人なのが珍しかったのだろう、イーサンはヴァンの姿を探したが、当然ここにはない。詳細を説明するのもまた喧しいかと思い、首を横に振って簡単に答える。


「今は、別の仕事をしてもらっています」


 イーサンはそれを聞いて少し額を抱えてから、眉根を寄せたまま、辛そうな面持ちである。打った頭が痛いのか。それともエレナの声が頭蓋に響くのか。答えはきっと、どちらともだった。


「すまない、まだ、体調が」

「申し訳ございません。私、配慮が足らず……」


 おそらくヴァンにエレナを連れて出るように合図でもしようと思ったのだろうが、この場にいないと知り、仕方なく発せられた拒絶の声に、何かいつもの王太子とは違うものを感じた。


 無遠慮過ぎたのはエレナが悪いのだけれど、ただ単に体調が優れない、という様子ではなかった。そうだとは思いたくもないが、他の者ではなくエレナがそこにいることが彼に苦痛を与えているようにすら見えたのだ。


 釈然としない気持ちではあったが、自分が病床に伏せるときに周囲で騒がれたことを想像すると、やはり良い気はしないだろうから、素直に立ち上がる。


「申し訳ございませんでした。殿下のご快復をお祈り申し上げます。女神の加護がありますように」 


 星の姫セレイリの顔を作り、口元で微笑んでから踵を返す。侍従すら外に出てしまっていたので、自らの手で扉を開こうとした背中に、イーサンが呼びかけた。


「エレナ」


 不意に響いた、これまで聞いたことがないような憐憫を含んだ声色に、肩越しに振り向く。窓から差し込む淡い光を浴びて、イーサンはこちらを見つめていた。思いつめたような表情だったが、その先の言葉はなかった。しばしの沈黙の後、彼は目を伏せる。


「すまない」


 追い出したことに対する詫びか、もしくは意味もなく呼び止めてしまったことにだろうか。やはり今日のイーサンは何かおかしい。だが考えてみれば、彼は生死の境を彷徨ったばかりなのだ。どんな人間でも、幾らか感傷的になるものなのかもしれない。


 王太子の言葉に首を横に振ってから、再度膝を折って臣下の礼をする。急ぐ必要はない。もっと体調が快復すれば、以前のように他愛もないことで笑い合えるようになるはずだ。

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