10 星の騎士と岩の騎士①


 イアンとの最初の会話の内容は記憶の片隅にもないが、一つ確かなことは星の騎士セレスダ選抜時までは、挨拶程度しか言葉を交わしたことがなかったということだ。


 選抜以前のヴァンは、自身の性質におびえるあまり、極力他人と関わらないように過ごしてきたのだから無理もない。星の騎士セレスダになった後だって、例の狩場での事件までは自分の中に住まう猛獣のことを誰にも話したことはなかったし、まさかそれを手なずける術があるだなんて、思ってもみなかった。


 選抜に負けてから、イアンはヴァンを申し訳程度ではあるが見直したらしく、ヴァンを蔑む見習い仲間たちを諫めてくれていたようだ。それでも引き続き、直接の接点はしばらくなく、二人の間に友情のようなものが生まれるのは、選抜の翌年。例の狩場でヴァンが熊を返り討ちにした後だった。


 前任の星の騎士セレスダであるハーヴェル卿は、自らの誓いに忠実に、ヴァンの自制心を育てるため、訓練をつけてくれることとなった。


 まずはヴァンから、心の中の獣のことを事細かに聞き出し、神殿の学者をはじめとする博識者たちに意見を仰ぎ、ヴァンの制御が利かなくなるのは、怒りに理性が消失するのと同じ原理ではないかと仮説を立てた。それが当たらずとも遠からず。ハーヴェルの助言通りに心を静めて三つ数える間に、大抵の場合、獣は姿を潜めることを知った。


 それでも当初訓練は円滑には進まず、最初のひと月はヴァン自身が猛獣であるかのように、首に鎖をつながれたまま剣を振ったものだ。回数を重ねる毎に自制心が芽生え、鎖は縄になり、布になってからとうとう解放されて、やっと人間らしい姿に戻してもらえた時には、すでに半年近く経っていたはずだ。


 初冬の冷たい風が、遥か北方の山脈から吹き降りる頃、やっと同世代の少年たちとの試合を許されるまでになった。と言っても、ヴァンが熊を切り刻んだという噂は尾鰭背鰭を付けながら騎士団見習い衆の末端にまで知られ渡っていたものだから、手合わせをしてくれる怖いもの知らずで親切な少年などいなかった。ただ一人を除いては。


「イアン! また脇が開いている」


 普段は物静かなハーヴェルも、後進を指導する場面では険しい表情を崩さない。腕を組み仁王立ちするハーヴェルは、幼い頃は特に威圧的に見えたものだ。


「油断するな、ヴァン! 自分の脚を斬ってしまうぞ」


 斬撃を受け流せば、イアンはなおも鋭い追撃で迫る。ハーヴェルの言葉通り、油断をしていては、こちらも怪我をしかねない打ち合いだった。半年の特訓の甲斐もあり、少し痛い思いをしたくらいでは、自我を失うことはなくなったものの、脚を一刀両断してしまっても、同じように理性を保てるかは未知数だった。


 こうして打ち合うようになって数日が経ったが、暑苦しさを感じるほど実直なイアンの剣筋と、隙あれば楽に逃げようとするヴァンの剣筋とでは、楽しい試合ができた試しがない。そして、水と油であるのは何も剣技だけではなかった。


「やめ!」

 ハーヴェルが鋭く声を上げ、肩を怒らせる。


星の騎士セレスダと黒岩の騎士がこのような未熟者だとは、見ていられない。ヴァン、お前はいつになれば自覚を持てるのか。星の騎士セレスダはその程度の者に務まるほど、甘いものではない」


 前任者にそう言われてしまえば、返す言葉もない。別に星の騎士セレスダになりたかった訳ではないけれど、と思わなくもないが、そのような口答えは火に油を注ぐだけだ。


「イアン、お前もだ。力押しをすれば何事も解決するわけではない。戦場で功を焦り、首を取られた者は星の数ほどいる。その一人になりたいのか」

「申し訳ございません」


 肩を落とすイアンと、少し不貞腐れたような顔のヴァンを交互に見遣ってから、ハーヴェルは溜息を吐いて首を振った。


「呆れて言葉も出ない。もういい。剣を置いて、陽があそこの屋根の下に落ちるまで、走り込みでもして来い」

「えええ……」


 思わず漏れた声に鋭い視線が向けられ、ヴァンは口をつぐむ。一方のイアンは絶望に満ちた顔をしていた。この疲労でへとへとになった身体で、無目的な走り込みをしろだなんて、あの人は悪魔に違いない。


 それでも上官の指示に従わない訳にはいかず、渋々走り出す。闘争心に溢れるイアンは、好敵手の前を走ろうとするが、どんなに引き離されたとしても、ヴァンが自分の速度を崩さないので、調子が出ずに不完全燃焼した様子である。


 しばらくして、体力の配分を誤ったまま駆け続けたイアンの脚がもつれ出すと、ヴァンがその横を軽々と抜いていく。イアンはくやしさに顔をゆがめ、必死に脚を動かしていたが、体力はもう限界のようだ。


「待て、この……」

「なんだよ、別に競争じゃないんだから」

「お前は、どうしてそんなに冷めているんだ」

「じゃあイアンはどうしてそんなに暑苦しいんだよ」


 頭に来たのだろう、イアンが不意に手を伸ばし、やや前方を走っていたヴァンの腰辺りを掴む。走りながらの急な動作に、ヴァンの脚がもつれてしまい、二人は半ばもんどり打つようにして砂の上に転がった。


「やっぱり納得いかない。お前みたいなやる気の欠片もないやつに負けただなんて」

「そんなの自分の力不足だろ」

「なんだと」


 どちらが先に手を上げたのか、わからないほどだった。砂の上で取っ組み合いながら、年相応の喧嘩が始まる。騒ぎを聞きつけた他の騎士見習いが、慌ててどこかに行ったかと思えば、戻ってきた時には今まで見たこともないほどの怒気に包まれたお目付け役のハーヴェルが、大股でこちらに向かってきていた。


 馬乗りになった時にそれが視界に入り、ヴァンは思わず攻撃する手を緩める。その隙に、イアンの拳が頬に食い込んだ。口の中が切れたようで鉄の味が広がったが、それどころではない。


「イ、イアン。立って。ほら」


 喧嘩相手は置いて行ってもよかったはずだが、咄嗟にイアンの腕を引き、無理やり立たせる。不満げなイアンも、ヴァンの視線の先を追ってその意図に気づくと、顔を青ざめさせた。


「まずい、逃げよう」


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